今回いただいたリクエストは、「多様性について」です。
最近よく色々なところで聞いたり、目にすることも多い言葉だと思います。
それについてワタシなりに感じたことを、書いていけたらなと思います。
ただこれはあくまでワタシ個人の意見であり、全ての人がそうであるというわけではありません。
「こんな考え方もあるんだな」くらいに読んでもらえたら、嬉しいです。
それでは、スタートです!
多様性ばかりが取り上げられて
最近よくニュースや本、または動画やテレビなんかでも「多様性を尊重して」だったり、「多様性の時代」なんて言葉がよく聞こえてくるような気がします。
ワタシにはなぜそこで論争だったり、ディベートのようなことが起きているのかが、少しだけついていけないところがありました。
多様性の話になると、どこか話が逸れてしまっているような気がするんです。
特に多様性の話で上がるのは、LGBTQ+についてでした。
けれどもそこには、「色々な人がいて、性別や同性愛、または別のことで悩んでいる人がいるから、お互いに歩み寄りながら、生活をしていくことを考えていこう」という話ではなく、「同性愛者同士の結婚についての反対」だったり、「見た目と心の性別が不一致な人のトイレの話」だったり。
どこか重箱の隅をつつくようなことばかりを話し合って、根本的な解決策を見つけようとしていないことが、どうしても目に映ってしまいます。
多様性を認め合いながら、それぞれが生きやすい環境を考えるべきなのに、どうして揉めるような話ばかりを掘り下げていくのか、理解できませんでした。
偏った論点で
トイレの問題が大きく取り沙汰された時もそうでした。
見た目が男性なのに心が女性だからというのは、他人から見たら分かりません。
そういう人たちの多くは、多目的トイレに入っているか、別の方法でトイレを利用しているかなど、配慮をしている人がほとんどだと思います。
ただごく稀に、それを悪用して犯罪行為をする人がいるから、「全てのLGBTQ+の人は、同じような犯罪をするかもしれない」という前提で話をしていること自体が、もうすでに多様性を認めていないと思うんです。
以前参加したレインボープライド(LGBTQ+)のイベントでは、見た目は男性だけれど、心は女性の方もいて、中には見た目のことで笑われながら会場まで来た人もいました。
けれどもその人は、「ここに来て初めて、自分も居て良いんだ。好きな服を楽しんで良いんだと思えたんです」と嬉しそうに話してくれました。
あの時の声も、表情も、今でも忘れられないくらい、どこか寂しげで切なさを感じました。
どうして極端な考え方しかできないのか、それぞれの不安だったり思いがあるのなら、どうして少数派の人たちが不利になるような論点で話をするのか。
それが何より、理解できないんです。
意見をわがままだと捉えないで
多様性を認め合うのなら、好きな人同士の性別が違っても結婚することは、わがままなことなのでしょうか。
TPOに合っていない格好や、過度な露出はもちろんダメだと思います。
けれども着たい服を着て、メイクをして、自分自身を振る舞うことは、そんなに間違っていることなのでしょうか。
それが当たり前にできない環境が根強いからこそ、今でも笑われたり、時には陰口を叩かれて周りに気を遣い、自分自身と向き合っている人が大勢いると思います。
ほとんどの人は、ただ純粋に好きな人と結ばれることを願っていて、自由にファッションを楽しみたいと思っている。
ただそれだけなんです。
それは、わがままなことですか?
それは、間違った考え方ですか?
「理解してよ!!」なんて押し付けている人は、ほとんどいないと思うんです。
きっと多くの人は、自由に恋愛も結婚もさせてほしい。
そしてそっとしておいてほしい、そう思っているような気がします。
最後に
世の中にはLGBTQ+以外にも、障害や肌の色、見た目の違いや国籍、他にも多様性と分けられたものがきっとあると思います。
けれども多様性という言葉ができたから、同じ人間なのに、何かに区分されて、分けられてしまっているような気がするんです。
確かに違いを認め合い、違いを受け入れられる環境が当たり前に存在していたら、きっと「多様性を尊重して」なんて言葉は、出なかったかも知れません。
だってそれは、当たり前のことだと思うから。
言葉にして分けるようなことをしなくても、お互いに寄り添うことができ、それぞれの意見や思いを汲み取りながら関わることができていたら、きっとこんな言葉も生まれていなかったでしょう。
悲しいけれど、まだまだ難しい世の中だと、ワタシは痛感してしまうんです。
「多様性」という言葉だけが浸透して、なんとなくの中で生きてしまうことが、ワタシは怖さを感じてしまいます。
同じ人なら、区別する必要もない。
だって、人生はとてもシンプルなものだから。
全ての人が平等に生きやすい世の中になることは、不可能かもしれません。
けれども、マイノリティ(少数派)もマジョリティ(多数派)も、障害を抱えて生きている人も、そして国籍や肌の色が違う人だって、お互いの意見に耳を傾け、気持ちを知ることはできるはず。
そうやって少しずつ相手を知りながら、手を取り合い生きていくことが、本当の意味で「多様性を理解する」ことに繋がると、ワタシは思うんです。
それが多様性を理解していく第一歩だと、ワタシは思うから。
ナイーブな私に勇気をください