まだ私が保育士をしていた頃、ずっと心の中に抱えていた疑問がありました。
子どもたちと関わる中で、よく言われていたことは「子どもの個性に合わせて、保育をしなさい」でした。
人それぞれに個性があるように、子どもにも、もちろん大人にも個性があります。
性格にばらつきがあるのと一緒で、得意不得意だって人それぞれ違うはず。だから私たちは、子どもの目線に立ち、子どもたち一人ひとりの個性を尊重しながら保育をしてきました。
しかし、大人同士の人間関係はどうだったか。
残念ながら、言葉とは正反対のことが常に行われていました。
個性なんて無視して、頭ごなしに行動や人格を否定している場面を度々目撃してきました。
その度に、「どうして子どもの個性を尊重できるのなら、大人の個性も認められないの?」と、まるで正反対の行動をしていることに、理解できませんでした。
公開処刑の職員会議
職員会議は、ある種公開処刑をされる場でもありました。
職場の中で仕事ができると言われている人たちは、時間を過ぎることだけを考えその場所に座っている。
しかし標的となった先生は、ただ一人その場に立たされ、仕事がいかに出来ていないか、どれだけ周りの足をひっぱているのかを、永遠にも感じられる長い時間の中で、責められ続けるのです。
目に涙を浮かべながら、「すみません、すみません」と泣く姿に、一体どれだけの人が胸を痛めたのでしょう。
そしてどれだけの人が、目の前で起こっている光景を他人事だと思っていたのでしょう。
啜り泣く声だけが響いて、次に言われる言葉は決まって「まるで意地悪してるみたいじゃない。あなたのためを思って言っているのよ」と恩着せがましく言っていました。
これはパワハラではなく、れっきとした指導だというアピールにしか聞こえませんでした。
そして私は、泣きながら立たされている姿さえ見れず、ただ俯いて時間が過ぎることを願うことしか出来ませんでした。
サンドバッグにされた同僚
人には「苦手なこと」と「得意なこと」がある、それはどれだけ優秀な人でも同じだと思います。そして、仕事は全てをオールマイティーにこなすことも大切かもしれないけれど、出来ないところを互いに補いながら、助け合うことが一番大切だと思うのです。
しかし、もっと「出来るようになってほしい」とか「一人前に育ててあげてる」という割には、苦手なことばかりを押し付けて、叱るタイミングを見計らっているようにしか思えませんでした。
行動全てに否定的で、毎日言っていることもコロコロ変わっていく環境が、何年も続いていたら心はどうなっていくのか、気持ちは前を向いていくのか、そんなことは誰だって分かるはずなのに。
私は叱られている人を見るたびに、あの先生はサンドバッグのようにされている、あれは指導ではなく、ストレス発散の道具でしかないと思っていました。
指導というなら、なぜ行動の全てを監視して指摘をするのだろう。
成長させたいのなら、時には認めることも大切なのに。
叱って、泣かせて、「すぐ泣かない!」と怒って、苦手なことばかりを押し付ける。これのどこに、優しさがあるのでしょうか。
私には、一つも理解することができませんでした。
異常な環境で
異様な光景の中には、確かに何度も改善されないもどかしさや、苛立ちがあったことは理解できます。給料が少なく、「仕事を多く任される人」と「そうでない人」で、もらえる額は同じだけ。
そこに理不尽さを感じることも、分からなくはない。
けれども本当に成長を望み、保育士として、職員の一員として頑張ってほしいなら、やり方が全て間違っていたと今でも思います。
長年叱られ続けた人間は、些細な言葉でも自然と涙が溢れ、思考が停止してしまう、そんな状況を見ていると、もはや洗脳に近いものを感じることさえありました。
きっと心の底では、出来ない人がいることに安堵している人間もいると思います。
成長や指導という言葉を使って、ストレスの捌け口にしている人間もいたと思います。
だからこそ、いつまで経っても環境は変わらないし、心はどんどん荒んでいってしまうのだと思います。
本当に大切に思うのなら、叱ることが全てじゃない。
相手の言葉を聞き、何が苦手で、どうしたら出来るのかを一緒に考えること、そして一つずつ達成できるように支え合うことが、本当の指導ではないでしょうか。
保育士をしている時、私自身も息が詰まりそうになりながら仕事をしていました。間違っているやり方をしている人たちに、「それは、違うと思います」と言う勇気は、ありませんでした。
泣いてる姿を遠くで見ながら、落ち着いた後で声をかける、そんなことしかできませんでした。
きっとその場で「助けて」と言っていたはずなのに、その場で手を差し伸べることができなかったことに、今は猛烈に反省しています。
だからこそ、言えなかった当時の想いを文章で伝えているのかもしれません。
助けられなかった罪悪感を、なんとか埋めたいと思ってしまっているのかもしれません。
働いていた頃の記憶は、今でも脳裏に焼き付き、泣きながら立たされている姿も、いまだに忘れられることができません。そして私自身も理不尽なことを言われて、倉庫に隠れて一人で泣いたことが何度もありました。
大人が言われすぎて、職場で泣くことが頻繁に起こること自体、異常なことに気づいてほしいと、願うばかりです。
辞めた私が伝えられること
今もどこかで異様な環境で耐えている人、私のように辞めて新しいスタートを踏み出した人、それぞれいるでしょう。
ただこれだけは、伝えさせてください。
完璧な人なんていません。
全てをこなせる人なんていません。
誰だって、得意なこともあれば苦手なこともある。
それは、決して悪いことではないんです。
だからこそ、ほんの少しの思いやりを持つことが大切だと思うのです。
「得意なこと」と「苦手なこと」を理解し助け合うことで、人間関係は少しずついい方向に変化していくのではないでしょうか。
叱るのではなく、間違いを否定するのでもなく、どうすれば改善されるのかを一緒に考えることが、大切なことではないでしょうか。
子どもたちと関わる保育士こそ、大人の個性を理解し、尊重し合える環境になることを祈るばかりです。
ナイーブな私に勇気をください
どうして拒否···を読んで
私は読書が好きです。特に再読することに快感すら感じていますw
変に思わないでくださいねw
すなわち、以前読んだ時と再読する時では、自分自身はもとより自分を取り巻く環境も変わっていて、同じ文章を読んだとしとも感じ方が変わっているからです。
私は文章を
『いきもの』
ととらえています。
だから文章を再読する理由は、私にとっては新たな新書を読むのと変わりありません。
息子が九州から遊びに来ている時、人権について作文を手伝ってほしいと言い、すぐさま引き受けました。
二人ペアで一人(妹)はA4の紙を持ち、もう一人(息子)はハサミを持ち共同作業で紙を切ります。
ひとつ条件があり、ハサミを持つ方は親指を手のひらにガムテープで固定します。
どうでしょう紙は切れたでしょうか。当然切れません。
お互いどんなことを思ったか話し合うと言う人権問題です。
ハサミを持つ方は
『手をかしてください』
と思うでしょうし、紙を持つ方は
『手をかしましょうか』
と思うでしょう。
私たちには、お互いに個性がありお互いに理解し合い、共に協力して生きていきましょうと言う気持ちがわいてきます。
リクエスト企画『大人のいじめ』を読んだ後に、本エッセイを再読した感想です。
そんな20年位前のことを思い出させていただいたエッセイでした。
ありがとうございます。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
「文章は生き物だと思っています」この言葉がすごく心に残りました。
実はこれだけ文章を書いているにも関わらず、本を読むことがワタシは苦手です。
けれども、こうして読んでくださる方がいて、それぞれの思いを感想という形で読ませていただくことは、自然とスーッと読むことができるんです。
TK1979さんの言葉を借りるのなら、こうしていただいたコメントたちも「生き物」のように、それぞれの思いの中で動いているものだと思います。
そしてその言葉の中に隠された新たな気持ちを知ることが、知識を得るような感覚になっているのかもしれません。
コメントの中にもありましたが、それぞれの役割があって、言葉をかけ合いながらお互いに寄り添うことの大切さを、改めて感想を読みながら知ることができました。
ありがとうございました。