恋は奈落の底へと落ちてゆく

オリエンタル納言日常日記

結婚して3年が経ち、もう過去の恋愛のことなんて忘れてしまいそうになる瞬間があります。

彼とこれからを生きると決めたあの日から、確かにワタシの人生に劇的な変化が起こりました。

マッチングアプリで心のスキマを埋めてくれる人を探す必要もないし、遠距離恋愛をしながら寂しさを埋めるためにお金と時間を使って、心をすり減らす作業をする必要もなくなりました。

トキメキなんてなくたっていい。

恋なんてする必要もない。

もしもあの頃のワタシが、今の姿を見たらもっと別の感情を抱くかもしれません。そして今の生活を見たとしても、こんなことを言い出すかもしれません。

「たとえ今は愛をくれていても、いつかその愛が消えてしまう日が来ると思う。だって今までもそうでしょ?愛されたくて、愛されたくてたまらなかったあの日、この愛が永遠に続くなんて思わなかったでしょ?そういうものだよ。だからワタシは今も隣にいる彼と奈落の底に落ちてゆくつもりで、ただ一緒にいることを選んでいるんだから。結婚したからって何も変わらない。一生を誓ったとしても、結局ワタシが選ぶ人は、誰になっても変わらないんだよ。そうやってまた心の傷だけを増やしていくだけなんだから」

狂った愛を求めて

あの時のワタシは確かに狂っていたと思います。

マッチングアプリに次から次へと「いいね」がやってきて、モテている気持ちになっていたし、「結婚」なんて言葉よりも、ただただ近くにいて愛してくれるような感覚にしてくれる人を探していました。

それがいつか終わりを迎えてしまう日が来たとしても、それでも良かったんです。

ただその時の一時的な感情を満たしてくれる、そんな人が隣にいるだけで良かったんです。

だからワタシは、狂ったように愛を与えてくれそうな人に「同じ気持ちだよ」というフリをして、恋人になることを選びました。

自分から「この人がいい」と選んだわけではなく、「好きだよ」と甘い言葉を囁いてくれて、「綺麗だね。ずっと一緒にいたいな」そんな言葉に心を掴まれた気分になって、一緒になることを選んでいたんです。

それはきっと、今までモテてこなかったから男性に声をかけてもらえただけで、素性もあまり知らない異性と恋愛をすることを楽しめそうだという曖昧かつ雑な理由で付き合っていたのかもしれません。

欲が出たとしても

それからあらゆる人と出会い、そして交際をしていました。

たとえタイプじゃなかったとしても、好きな気持ちがあまりなかったとしても、それで良かったんだと思います。

自分のことを見てくれさえすれば、好きでいてくれさえすれば、それでよかったんだと思います。

だから付き合ってもすぐに別れることを想定していたし、どこかでこの恋は終わるとも思っていました。

けれども一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、あらゆることが思い出に変わって心に刻まれていくほど、ワタシの心の中で出てはいけない「欲」が出てしまうようになりました。

「この人と、もっと一緒にいたい」とか、「もう少しだけ、ワタシだけを見ていてほしい」だとか、そんな欲だらけの感情を抱くようになったのです。

心の中ではもう、わかっていたのに。

この恋は、いつか終わってしまうことを・・・。

傷つくたびに見失ってゆく

初めは相手が好きになってくれていたはずなのに、いつしかワタシの方が離れられなくなることが多く、愛の重さに押しつぶされてしまうように彼らはワタシの元を去っていきました。

そしてお決まりの「なんか違う」とか「もっといい人が納言にはいると思うよ」なんて例文で使われそうな言葉を、血の通っていない冷たい文字だけで見ることばかりだったんです。

その時は泣いて、泣いて、傷ついて、そして絶望すらしました。

けれどもどこかでわかっていたんです。

彼のことが好きだったんじゃなくて、きっとワタシのことを見てくれて、愛されていることを実感できている瞬間に恋をしていたんだと。

だから切り替えも早くて、また同じことを無限ループみたいに繰り返していました。

振られて泣いて、また新しい人と出会って、また恋をした気になって、そしてお別れがやってくる。

そのサイクルにハマり出した時から、どこかでワタシは「愛されること」「愛すること」も諦めていたのかもしれません。

26歳で旬に終わりを告げられて

マッチングアプリを始めた頃は、まだ20歳になってるかなっていないかの初々しい頃でした。何より男性に対してもどこかで「ワタシなんかと付き合ってくれて申し訳ない」なんて馬鹿げた後ろめたさがあったから、どんな相手でも多少は長続きもしていたし、目的もなく頑張ろうともしていました。

ただある年齢を境に、初々しさなんて消え去ってしまったし、愛されることだけに心が満たされていたから、恋愛ではなく「共依存」のような関係を求めてしまっていたのかもしれません。

自分のことを愛してくれて、ずっと好きでいてくれて、そしてこのままその関係が続いていく人を探し続けてしまいました。

自分の悪いところなんて見る暇はありませんでした。

彼らの言葉だけを鵜呑みにして、周りの人たちの言葉を遮断し続けました。

どれだけ「やめた方がいい」と言われても、「彼の良さを知っているのは、ワタシだけなの」なんて恋愛の歌に出てきそうなことを本気で思っていた時期もありました。

けれども、周りが結婚をし始めた頃から余計に孤独を感じ、そして恋愛観ごと奈落の底へと落ちていき、26歳で旬の終わりを告げられたような気すらしていたのです。

恋は奈落の底へと落ちてゆく

26歳を境に恋はどんどん盲目的になって、結婚なんて考えてもいなかったのに、「誰でもいいから、隣にいてくれるだけでいいから、形だけでも結婚できたらいいから」そんな理由で焦り始めたのです。

あの時のことを思い返すと、別に結婚がしたいわけではありませんでした。

けれども周りにおいていかれるような気がして、結婚と結婚をしてとりあえず目に見えてわかる「普通の生活」を手に入れたかったのかもしれません。

それ以降、さらにマッチングアプリにハマるようになり、どこかで自我が芽生えたみたいに自分らしさを出すようになったのです。

そうした途端に、今まで当たり前にもらえていた「いいね」はもらえなくなり、ようやく会うまで漕ぎ着けた人でさえ「また今度遊ぼうね」と言われたきり、返事がなくなることが当たり前になりました。

勇気を出して理由を聞いたこともありましたが、ほぼ同じ言葉を言われることが多く、「なんか、納言ちゃんは女性って感じがしないんだよね。だから、付き合うとかは違うかなって・・・ごめんね」そう言われてしまうのです。

その字面を見るたびに、その言葉を言われるたびに、どんどん奈落の底へと突き落とされるような気分になっていったのです。

ワタシも同じくクズだった

あの頃のことを思い出すと、確かに元彼たちはロクでもない人ばかりです。

そしてそんな人を選び、依存して、ただただ「愛してほしい」と叫び続けていたワタシも、クズ男たちと一緒でクズでした。

「幸せは諦めた頃に、やってくる」そんな言葉を腐るほど本や何かの名言集で読んできましたが、そんなことはきっとないと思うんです。

諦めた時というよりも、きっとワタシはハリボテだらけのワタシを見ていた人ではなく、そのままの「なんか違う」と言われ続けたワタシになったことで、ようやく自分に合った人と出会えただけのような気がするのです。

もしもマッチングアプリをやりすぎていなかったら、普通に恋愛してきていたら、今の彼と出会うことも、もしかすると惹かれることもなかったかもしれません。

クズな恋愛で奈落の底に落ちたからこそ、見えたものがあるような気がします。

そして今の生活が当たり前になってしまう時には、あえてクズでどうしようもなかった頃の自分を思い出すようにするんです。

あれだけ欲しかったものを手に入れられなかった頃を。

愛してほしいと叫びすぎていた頃を。

そしてワタシも同じクズだった頃を・・・。

ナイーブな私に勇気をください

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