私はエッセイを書き始めた頃よりも、気持ちが前向きになりました。
常に抱えていた心の影を少しずつ受け止めて、「大丈夫。あなたなら出来るはず」そうやって、自分自身を受け入れることを学びました。
昔は「なんでこんなこともできないの?どうして簡単なことも、失敗してしまうの?あぁ、そうか。私は無能で必要のない存在だった」と責める言葉を並べて、1番の味方でいなければいけないワタシ自身が、言葉の刃物を突きつけていたんです。
周りが羨ましくて仕方がなかった。
同じ人として生まれたのに、持って生まれた才能の違いを見せつけられることが、羨ましくて、苦しくて、そしてどうしようもなくてたまらなかった。
そんなワタシの唯一の才能は、自分自身を責めることだったんだと思います。
けれども、エッセイを書くようになり、少しずつだけれど、「納言ちゃんのエッセイ読んでるよ!」とか「過去を思い出しながら読ませてもらいました」と直接言ってくれる人が現れるようになりました。
時には感想をくれたり、応援をしてくれたりと、最近になって本当に多くの方々の支えに救われて、今のワタシが出来上がりつつある。
そんな風に思えるようになったんです。
しかし、時折芽生えてしまうのです。
小さなネガティブの種が。
どこからか顔を出して囁くことがあるんです。
あなたは一体、何がしたいの?
あなたに出来ることなんてあるの?
ほら、見てごらん。あなたよりも優れた人がこんなに沢山いるんだよ?あなたは何もない、無名の作家もどきでしかないのだから。
そんな種が一つまたひとつ増えていく感覚に襲われる時があるんです。
それは決まって、深く静かな夜の間でした。
夜が怖くて
昔は夜が大好きでした。
澄み切った夜空にチラホラと輝く星を眺めながら、大好きな音楽を聴いて景色の一部になっている時間が。
何も考えなくていい。
誰かに何かを言われるわけでもない。
ただただ、ワタシがワタシでいられる時間が好きでした。
そして思うのです。「ずっとこの時間が続けばいいのに」って。
それはきっと、忙しすぎる社会の中でがむしゃらに働きすぎていたからだと思います。子どもたちの声がいつまでも耳の中で響き、声を拾い上げようとしても、雲のように目の前にあるのに、掴むことができない。
そして嫌な言葉だけが、体にまとわりついて離れようとしないんです。
どうして子どもたちのことだけを考えて過ごせないんだろう。
どうして自分の意見を言うだけで、こんなに怯えてしまうんだろう。
子どもたちのことが大好きなのに、保育士の仕事が嫌いになってしまう、それが1番辛いことだって分かっているのに・・・。
そんな生活をしていたから、忙しない日中は何も考えられず、笑顔の仮面を被りながら、生きることに必死だったのかもしれません。
人という歯車の中で常に動かされていたあの時、ワタシはワタシを失っていたんです・・・。
しかし今では、社会の中には入らずに、一人でいる時間の方が多くなってしまいました。
「行ってきます」と遠くの方から聞こえてくる声は、孤独が始まる合図でもあるんです。
機会音だけが鳴り響く部屋に、ワタシの話し相手はどこにもいません。けれども、外の世界が明るいから、まだ寂しくはならないんです。
暑さにうんざりしながらも、明るさを求めて、カーテンの近くで作業をする。少しだけ社会との関わりを感じて、生活音を聞きながら夫の帰りをただひたすら待てばいい。
保育士をしている頃は、とにかく朝が早くてあっという間に寝る時間になっていました。どれだけ怒られても、どれだけ悲しい出来事があっても、それでも疲れと共に眠ることができました。
しかし、遅くに起きて体も動かさずに過ごしている今の環境では、そう簡単に眠ることができないんです。
疲れ切って帰ってきた夫に話をするけれど、時折申し訳なくなってしまう。優しい彼は、なんとかワタシの話を聞こうとするけれど、少しずつ体力の限界を感じながら、返答もそぞろになっていく。
どこかで疲れているからと思っている部分と、1日の寂しさをなんとか紛らわしたい気持ちの両方が欲として出てしまうんです。
ご飯を食べてお風呂に入ると、あっという間に寝る時間になり、彼は疲れているから、ベッドにダイブして気づけば寝息をスースーたてながら深い眠りの中へ入ってしまうのです。
ワタシは眠れない時間寝返りを打ったり、何か楽しいことを考えても、不安の渦が少しずつ大きくなっていくのを感じ、どんどん目が冴えてしまう。
常にある罪悪感と、将来への不安。
何一つ見えない未来のことに対しての恐怖心は、夜の暗闇と静けさが余計に孤独を煽ってくるように感じてしまうのです。
頭の中で繰り広げられる妄想は止まることはなく、考えてはいけないことまで安易に想像させてしまう時もありました。
そして行き着く答えは、「ワタシはこの先、どうなってしまうんだろう」という言葉と共に、ようやく眠り、そして夢の中にまで持ち込んでしまうのです。
いつまでも消えない想い
仕事を辞めて、エッセイ活動に全勢力を尽くしている今、もしかしたら周りの反応はワタシとはまるで違った見え方をしているかもしれません。
好きなことを自由にしているように見えているかもしれない。
今ある自分の時間を有意義に使えていると思われているのかもしれない。
SNSに投稿している写真たちは、ワタシのもう一つの姿であり、そして憧れている姿なのかもしれません。
好きな事をとことんやり、自分の思いを貫く姿は、ワタシが作り出した憧れの存在を具現化したものかもしれません。
本当のワタシは、とても弱くて脆い存在なのだから。
常に劣等感を感じて生きてきたから、誰かと比べてきた人生にお別れを告げることは、簡単なことではないみたいです。
羨ましいと思わなかったことはありません。
自分にはないものを持っている人たちに、憧れなかったこともありません。
そして今も、その想いが消えることもありません。
昔よりも薄らいできた感情ですが、ふとした瞬間に現れて、ワタシの感情ごと連れ去ってしまうことだってあります。
変化することが怖いくせに、変化しないことも怖くてたまらない。
未来に不安があるくせに、希望を持って期待をしてしまうこともある。
だからこそ、文章の中だけでも素直に自分の心をさらけ出す作業をしているのでしょう。
表現しようのない感情を表に出したくて、誰かに見つけて欲しくて、言葉にしているのかもしれません。
夫婦で表現することは
ワタシは文章を書き、彼はAIアートを作ることをしています。それは側から見たら、面白いことをしている夫婦として見てくださっているかもしれません。
けれども、やっぱり先行きの見えない不安は時として、喧嘩という形で表に現れてしまうこともあります。
感情の行き場がない時、どうしようもない気落ちが溢れ出てしまった時、私たちは本音でぶつかり合い、そして声を出して泣きます。
お互いに繊細で、そして弱さを持っているんです。そして何より、報われてこなかった人生を歩んできたから、余計に不安と期待の狭間で闘い続けているのかもしれません。
今までにも表現の道への挑戦を何度も行ってきました。
表では期待はしていないと言いつつも、どこかでもしかしたらという感情を捨てきれず、期待をしてしまったことが何度もありました。
けれども、上手く行ったことなければ、期待を裏切られて、傷ついて帰ってくることの方が多かったです。
「どうしてこんなに上手くいかないんだろう・・・」と何度も涙を流しながら、それでも「きっと大丈夫。きっとそのうち光が見えてくるから」と互いに言い続けてきました。
しかし、その成果を得られたこともないんです。
どこかで「もう、無理なのかもしれない」なんて思うこともありました。
けれども二人とも往生際が悪いから、「もう一度だけ、やってみよう」と諦めてこないまま、今の形になっているんだと思います。
ネガティブの種をまく
今までの人生を振り返ると、ネガティブ以外で物事を考えたことは、ほとんどありませんでした。
そして、期待をした先にはいつも後悔の感情が芽生え、悲しい思いをしながらまた一つネガティブの種を蒔く作業をしてきました。
しかし、もしも悲しい経験がなければ、ネガティブな性格でなければ、きっとエッセイは書いていなかったと思います。
そして、もっと別の生活を送り、別の人との未来を歩んでいたと思うんです。
彼と出会い、ワタシはエッセイを書き始めました。
そして彼も、歌うことから離れたけれど、表現することはやめませんでした。
ネガティブの種は、少しずつ前を向くための花を咲かせようとしているのかもしれません。
一つひとつ蒔いてきた種に、涙という水をあげて。
時には声をかけながら、誰かに励ましという名の肥料をもらって。
そうやって今ワタシも彼も、新たな道を歩み始めているのかもしれません。
ポジティブだったらどれだけ楽になるんだろうと思ったことは、何度もありました。
別の考え方ができて、溜め込まずに発散する方法を知っていたら、病気にだってならずに済んだのかもしれません。
けれども、きっとこの性格にはそれなりの役目があるのだと思うんです。
同じ気持ちを抱いたことのある人、心に傷を抱えている人の想いを、ワタシは痛いほど分かるから。
それは同じようにネガティブの種を蒔いてきた側の人間だからこそ、痛みが分かるんだと今なら思うんです。
これまでの人生を振り返り、本当にロクでもない人生を送ってきました。
側から聞いたら「なんて運のない子なの?」と思われるような体験も、いっぱいしてきました。
それも全ては、痛みを分け合う役目を担う準備期間だったと思っています。
それが、ネガティブの種を蒔く作業だったのかもしれません。
生きていれば辛いことの方が多いと感じてしまうもの。
それは、どれだけ幸福を感じていても、傷つく感情の方が心や記憶に強く残るからなんです。
そしてその気持ちは、決して堪えなくていい感情だと思います。
辛い時は辛いんだって言っていいんです。
苦しい時は助けてって言っていいんです。
嬉しい時は嬉しいと言うし、楽しい時は楽しいと言えるのに、負の感情は隠さなければいけないなんてことはないんです。
だってどれも大切な感情なのだから。
もしもあなたが持っているネガティブの種を蒔きき終えた時、空を見上げるように考えてほしいんです。
辛い時に言葉をかけてくれた人のことを。
涙をそっと拭いてくれた人のことを。
そして、「よく頑張ったね」と言ってくれた人のことを。
思い浮かべれた時、今度は種に向かって「ありがとう」と水をあげてほしいのです。
ネガティブの種は、悲しい感情から生まれるけれど、優しい言葉できっと綺麗な花を咲かせるとワタシは思っています。
相手を想う、思いやりの花を・・・。
そんなワタシも、ネガティブの種に水をあげているんです。
「どんな些細な言葉も、ワタシにとっては大きな勇気になっています。出会ってくれてありがとう。沢山の気持ちを伝えてくれてありがとう。そして何より、優しさを与えてくれてありがとう」そう言いながら。
いつか綺麗な花を咲かせた時、恩という形でお返しができるように、今日も静かにネガティブの種に水をあげて・・・。
ナイーブな私に勇気をください
ネガティブの種…を読んで
『ネガティブの種は、少しずつ前を向くための花を咲かせようとしている』と言う所に共感いたしました。
例えば、私はパートナーが出来、安心感を感じだすと同時に、パートナーを失うかもしれない不安感が顔をだします。
すなわち、安心感がなければ不安感も生まれない。安心感を感じるが故に不安感を感じるのだ
と思います。
納言さんのポジティブな花があるからネガティブな種が生まれてくると感じました。
あこがれの存在を具現化した花を咲かせるためのネガティブな種。
パートナーの立場になることは出来ませんが近づくことはできます。
パートナーをしっかり見つめながら、あこがれの存在を具現化した花をさかせましょう。
心にしみるエッセイありがとうございます。
どれだけ生活に潤いがあって、幸せが目の前にあっても、その途端にネガティブの種が顔を出すことってありますよね。
不安だったり、恐怖だったり、見えないものほど後退りしてしまうものはない。
そんな時に、自分の不安を一つひとつ口に出して、誰かに聞いてもらえると、それが肥料になって潤いを与えてくれると思うんです。
生きている限り、楽しいことよりも考えたり辛いことの方が気になってしまうけれど、そんな感情も愛せるようになりたいと思うんです。
とても難しいけれど、それがベガティブのタネを蒔くことだと思います。
今の僕は納言ちゃんと一緒だな。
いいねやフォロワーが増えて、評価してもらえて嬉しい反面、この先の仕事や収入の面を考えると不安が波となって襲ってくる。
新しく何かを始めて高揚していても、急に不安になってしまう。
先が見えないから不安なんだろうし、やってみないと分からないのも分かる。
でも静かに後ろから波となって不安がやってくる気配がする、波が膝下を通り過ぎていく度に少しずつ埋まっていく感覚がある。
多分この繰り返しばかりなんだろうなって、、、
まだ前は向けてないけど、過去が誰かの救いに変わる日まで足掻き続けないとな。
ポジティブが顔を出した時、途端にガティブの種を蒔きたくなってしまう自分がいるんですよね。
素直になればいいのにと思う反面、やっぱり傷ついたことが多いからこそ、素直になれない方が多い。
そうやって何度も繰り返しながら、少しずつ本当の意味での花を咲かせていくような気がします。「あなたのやっていることは間違いないよ」と言ってくれる人が、代わりに水をあげてくれるかもしれない。「自信を持ってやり続けなよ」と言いながら肥料を与えてくれるかもしれない。
そうやって色々な人の光の部分を浴びながら、助けてもらいながら、自分のあるべき本来の花を咲かせられるような気がするんです。