ワタシなりの平等と公平は

オリエンタル納言日常日記

リクエスト企画も残すところあと二つになりました。

今回のテーマは『平等と公平』です。

すごく難しいテーマであり、ワタシ自身も書くまでに何度も頭を悩ませて、時には文章書いては消してを繰り返しながら、向き合うことをしていました。

パッと見ただけでは、そこまで違いが分からず、そして誰かとこのテーマについて語り合う機会なんてないくらい、自然と見過ごし続けてきたテーマでもあるような気がします。

どこまで期待に応えられるかは分からないけれど、ワタシなりに感じた思いを伝えられたらと思います。

平等と公平を考える

このテーマを見た時、自分の人生はどちらに当てはまるかを考えてみました。

ましゅぴにこの話を聞いてみると、「ましゅぴはね、平等は違いをなくそうとすることだと思う。公平は、違いを認め合うことだと思う」そう答えました。

その言葉を聞いた時、いったいワタシの人生はどちらに当てはまっていたのかが分からなくなってしまったのです。

物後心ついた時から、平等という言葉は何度も聞いたことがありました。

しかし、平等に接してもらったことはありませんでした。

ましてや、公平で見てもらったことなんてもっとありません。

違いを認め合うことなんてなかったし、むしろ違うことはおかしいことだと言われ続けていました。

ならばせめて、同じ人として平等に扱ってほしいと願ったこともあるけれど、それさえも叶うことはありませんでした。

容姿の違い、考え方の違い、いろんな違いがあるけれど、常に比べられて、違いを否定された人間にとって、平等も公平もかけ離れた存在だと気付かされたのです。

一枚の絵

そんなことをぐるぐる考えていると、「この絵はすごく分かりやすく平等と公平を描いているよ」と見せてもらった絵がありました。

二つ並べられた絵の下には、それぞれ平等と公平の文字が書かれていました。

平等と書かれた絵には、野球場を見つめる身長の違う3人の後ろ姿と、同じ高さの木箱が平等に描かれていました。

公平と書かれている絵も条件は同じだったのですが、たった一つ違うことは、木箱の数でした。

1番大きい人には木箱は渡されておらず、真ん中の人は一つ、1番小さい人には二つ木箱が描かれていました。

平等の絵の中では、同じ数だけ木箱が描かれているから、1番小さい人は野球場での様子を塀が邪魔して見ることができません。

しかし、公平と書かれた方は、小さい人も野球場の様子を見ることができていました。

この絵を見た時、ワタシはとても複雑な気持ちになったのです。

挙げられていた声

生きている中で平等と公平、どちらが多く聞いてきたか。数えたことはないけれど、平等の方が耳馴染みがありました。

何かをする時には「平等にしよう」とか「平等に分けよう」と何かにつけて平等という声が挙げられていたような気がします。

しかし彼の意見を聞き、さらに絵を見た時、果たして平等とは本当に素晴らしいことなんだろうか。

もしかすると、公平の方が違いを認め合い、思いやりの上で成り立っているのではないかと思うようになったのです。

そして私たちに足りないものは、もしかすると違いを認め合い、助け合うことなのかもしれないとも思ったのです。

平等と書かれた絵には、少しだけ冷たさを感じました。

それぞれが個々に与えられたものを使い、自分のことだけを考えているような雰囲気を感じてしまったのです。

しかし公平と書かれた絵には、思いやりと温かさを感じました。

その絵の中で1番身長の高い人には、木箱は描かれていません。

その代わりに、1番小さな人には二つの木箱が重ねて描かれていました。

「僕は大きいから、この木箱を使って」というやりとりがあったかもしれない。

「みんなで一緒に野球観戦できたら楽しいよね」なんて言葉が交わされていたのかもしれない、そんな風に思ったのです。

そしてその優しい世界にワタシは、数年間だけいたことがあります。

大人になって忘れてしまうような言葉を、気持ちを思い出させてくれた人たちがいました。

それが、子どもたちの世界だったのです。

大人と子ども、それぞれの世界

保育士として働いていた頃、公平さに欠ける場所にいました。

そして同じ仕事量を与えられたとしても「あの人はサボっている」と言っている人がいたり、なんとか気に入らない人を蹴落とそうと考えて、常に悪口を言い回っていた人もいました。

働いた時間だけ平等に与えられた賃金と、割りに合わない仕事量、そして心に抱えた負担を考えると、そこに公平さは全くありませんでした。

しかし、同じ時間の中で働いて、年数に合わせた給料の支払いに関しては、平等さを保っていたのでしょう。

しかし、そこには思いやりもなければ、苦手を補い助け合おうとする優しさなんてものはありませんでした。

だからきっと、ワタシが前にいた職場を絵で振り分けた時、間違いなく冷たさを感じた平等の方として描かれていたと思います。

しかし、子どもたちの世界はまるで正反対でした。

困っている子がいれば、自分の利益なんて関係なく、助けてあげようとする。

違いを認め合い、そして時には純粋に「すてきだね」なんて言って褒め合ったりもする。そして小さな体で大人のワタシにこう言っていました。

「こまったおともだちがいたら、たすけてあげるんだよね?そしたらおともだちもうれしいきもちになれるもんね」と。

損得勘定なんて抜きにして、困っている子には手を差し伸べる。

何かを必要として、自分が持っていたとしたら「どうぞ」と言って貸してあげられる。

一緒に遊びたくても入れない子を見つけたら、「おいでよ!いっしょにあそぼうよ」と声をかけてくれる。

それが子どもたちの世界でした。

そんな世界を目の当たりにしている分、大人の世界が醜くて、とても冷たいものに見えて仕方がなかった。

どうして違いを認めることができないんだろう。

どうして苦手なことをわざと任せるんだろう。

どうして一言、「一緒にやってみよう」と声をかけることさえも許されないんだろう。

そんな疑問を持っていても、言葉を発することができなかったワタシも、きっと冷たくて公平さを忘れてしまった大人の一人だったのかもしれません。

それでもどこかで分かっていたんだと思います。

このままじゃ、ダメなんだってことを。

そんな時ワタシは一度だけ、クラスの子に「どうしておともだちに優しくしようと思うの?」と難しい質問を投げかけたことがありました。

するとまっすぐな顔でワタシを見ながら「『困った子がいたら、優しくしてあげてね』ってせんせいがおしえてくれたんだよ?やさしくしてもらったらうれしいもん。それにやさしくしてたら、ぼくがこまったときもたすけてくれるでしょ?」とニコッと笑って言いました。

純粋な眼差しで言われた言葉に、言葉で返すことができずにぎゅうと抱きしめて、一言だけ「いつもありがとうね」と言うことしかできませんでした。

照れたのか「べつにいいよ」と言ってキュッと握り返してくれた温もりを、今でも忘れていません。

もしかすると、平等という言葉の方が先だったけれど、思いやりの輪が広がるにつれて、公平に変わっていったのかもしれないと思った出来事でもありました。

ワタシなりの平等と公平を

保育士を辞めてからも、子どもたちからもらった言葉や優しさは、今でも心の中に残してあります。

そして今回のテーマである平等と公平の意味を理解していなくても、子どもたちの世界では自然とやっていたのだと思いました。

そしてきっと、私たちが純粋だった頃は、同じように平等や公平という言葉にこだわらずに、目の前にいる人を、困っている人を、損得勘定なしで助けていたのかもしれません。

大人の世界に長いこといたせいで、大切なことを忘れていたし、考える機会もありませんでした。

しかし、少なからず子どもたちと関わっていた数年の間は、多くのことを学び、その度に心の美しさに気づくこともありました。

今こうして離れてしまったから、記憶を辿り思い出すことしかできませんが、きっと平等と公平の答えを知っているのは、子どもたちなんだと思います。

とても難しいテーマであり、生活している中でつい言葉にするのは公平ではなく平等のような気がします。

そしてその言葉通り、違いやハンデがたとえあったとしても、平等を掲げている限りは、それ以上でもそれ以下にもならず、少しだけ冷たい世界にいるような気がしてしまうのです。

もしも今からでも間に合うのなら、公平に物事を見ていける人になりたいと思うのです。

全てを同じようにするのではなく、痛みを分けあったり、時には理解したり。困っている人に損得勘定を持つことなく手を差し伸べられる、そんな人に。

それがワタシの出した平等と公平のあり方です。

今の社会では、孤立化が進んでしまい、人との関わり自体も減ってきているような気がするのです。

ほんの少し前までは当たり前にできていたことでさえも、声を出すことが、行動に移すことが不安に感じる場面さえあります。

人が人に興味を持つことをやめてしまったのか、あるいは興味を向けられることに恐怖を感じるほど、社会が荒れてしまったのか。

けれどもワタシは思うのです。

ここ最近、SNSを通してだったり、自分の身近な人たちと関わったりしていると、どんな人も公平に物事を見て、感じることが出来る人の方が多いことを感じ始めています。

もしかすると、平等に固執して、自分のことばかり考えている人は、ほんの一部かもしれない。

本当は優しい心を持っている人の方が多いはずなのに、SNSや報道の仕方によって、偏った考え方が大多数に見えてしまっているのかもしれないと。

だからこそ、まずは自分の周りの人たちにだけでも、公平にそして、互いを補えるような関わり方をしたいと思うのです。

その輪が少しずつ広がっていくのなら、きっと気づく人がいるかもしれないから。

そしてもしもこのエッセイを読んでくださったのなら、考える機会になればうれしいです。

平等とは何か。

公平とは何か。

そして今の自分は、どちらの考えの中で生きているのかを。

ワタシはこのテーマがなければ、きっと二つの意味も分からないまま、また違った行動をとっていたかもしれない。

正解はないけれど、もしも二つの絵が指していること、そして子どもたちの世界で学んだことが確かなら、これからは平等ではなく、公平に物事を見ていきたいと思うのです。

それが今ある、ワタシなりの答えなのかもしれません。

 

 

 

 

 

ナイーブな私に勇気をください

  1. モト より:

    納言ちゃんの解釈、スッと胸に落ちるような感覚です。
    平等と公平は真逆なのかもしれません。
    白か黒とはっきりはしなくても、平等とはグレーな位置にあるのかも。
    誰かにとって損か得かが出てしまった時点で平等でも公平でもないのかもしれない。
    ただその中で誰かのために自分を犠牲にしてる人がいるのも忘れてはいけないことだと思います。
    ビジネスで損得勘定ができないやつは成功できないとよく聞きますが、最後はやっぱり人じゃないかな?って思います。
    あの人だからと言われるような人物、公平に判断できる人が長く残っていくんじゃないかなと考えます。

    人を人数で見ている方と違って、人を人として敬意を持って接している方は、公平を真に理解して実践してる方だと思います。

    • モトさんにリクエストをいただいた時、とても悩み、今までの中で1番頭を抱えながら考えたような気がします。 笑
      文章にも書いたけれど、平等という言葉はよく聞くけど、公平という言葉はあまり聞かないんです。その反対に不公平という言葉はよく聞くけど、不平等はあまり聞かないんですよね。気づかないうちに、平等の方が正しいことなんだと思ってしまっているけれど、白か黒かで決めつけずに、視野を広げながら、辺りを見渡した時、本当の意味を理解できるような気がするんです。
      平等とか公平とか、損得勘定で解釈せずに、今できることを、そして困っている人や助けを求めている人にそっと手を差し伸べられる人になりたいなと思いながら、書かせていただきました。

タイトルとURLをコピーしました