被災地の今を

オリエンタル納言日常日記

車から降りた瞬間に吹き抜ける風と共に潮の香りがして、「あぁ、またこの場所に来れたんだ」そう思わせてくれたのです。

1月1日の震災から気がつけば7ヶ月という月日が流れ、ニュースでも「被災から7ヶ月」と大々的にとは言わないけれど、あちらこちらで今の現状を伝えるような報道がされていました。

そして今、ワタシは第二の故郷である石川県珠洲市にきています。

崩れた家が隅っこの方に寄せられて、所々の家の解体作業が行われていました。とは言っても、本当にごく一部の家だけです。

ほとんどは今でもなお崩れたままで、道路に出ないように瓦礫を寄せただけの状態になっています。

周りに人はほとんどおらず、仮設住宅が立ち並び、悲しげに鳴いているトンビが頭上を飛び回っていました。

その様子は、4月に訪れた状況とほとんど変わっていません。

仮設住宅に泊まり

思い出の詰まった家は震災で壊れてしまい、祖母と叔父は家から少し離れた仮設住宅で暮らしています。

今までは日帰りで会いに行っていましたが、今回は初めて仮設住宅に泊まることになりました。

無機質な場所に、無機質で簡易的な建物、その場所に祖母と近所の人たちがまとまって暮らしていました。

広い敷地に何軒も建てられた仮設住宅ではありますが、そこに人の気配は何も感じませんでした。祖母に「どうしてこんなに静かなの?」と聞くと、「迷惑にならんように静かに暮らしとるさかい」と言ったのです。

震災で家を失った人、家族を失った人、仕事を失った人、あらゆるもの失った中で、生活さえも息を殺すようにして過ごさなければならない現状がそこにはあったのです。

仮設住宅には最低限のものしかありません。部屋を仕切る扉は全てカーテンになっており、床も壁も板をくっつけた状態でした。少しでも大きな声や物音を出したら聞こえてしまうような作りのために、そこで暮らしている人たちは、なるべく静かに物音を立てないようにしていたのでしょう。

けれども祖母は、「避難所でぇ暮らしとる人よりマシやわいね。あん人たちの方が大変やさかいに」と壁を見つめながら時折悲しそうに話していました。

私たちの家は

今回石川県に来たのは、父の仕事の用事が石川県であったからであり、その間ワタシと彼は祖母と一緒に過ごしながら家の様子を見に行き、片付けられそうなものがあるなら片付ける手伝いをするためでもありました。

父が仕事に出かけた後から、家の隣に住んでいたおばちゃん(祖父の弟のお嫁さん)に頼み、祖母を含めた4人で実家に行くことにしたのです。

おばちゃんの車の窓ガラス越しに壊れている町並みをただひたすら家に着くまで呆然と見つめることしかできませんでした。

田舎ではあるけれど、昔は人の気配がして活気があった場所も、今では誰もいない町並みに変わり、聞こえてくる音は重機とトンビの鳴き声だけになっていました。

数十分車を走らせて、ようやく実家に着いた時には4月に訪れた時よりも少しだけ傾いて見えました。

家の中に入ると、天井が抜け落ちて2階にあったタンスは1階まで落ちてひっくり返っていました。

「ありゃ〜、屋根がぼれて(壊れて)雨でダメになってしもたわいね」と祖母も驚きながら家の中へと入って行きました。

地震で屋根が崩れてしまったせいで屋根の隙間から梅雨の雨が入り込み、そこから少しずつ家は腐り、最後は床ごと抜けてしまった状態でした。

かつての思い出がたくさん詰まった場所は、見るも無惨な廃墟と化してしまったかのように・・・。

誰もいない・・・

壊れた家をただ見つめ、あまりの衝撃的な景色に涙を流す余裕もありませんでした。

今までの思い出を振り返るように、家の裏にある海に向かい歩いて行きましたが、そこの景色も誰もいないガランとした静けさの中で壊れた家たちが残されているだけとなっていました。

誰もいない。

誰もいない。

誰もいない。

聞こえてくるのは波の音とやっぱりトンビが鳴いている声だけでした。

ワタシの知っている場所は、もうそこにはなかったのです・・・。

この場所にしがみつくように、ワタシはひたすら壊れた景色を、戻らない町を時間の許す限りただひたすら見つめていました。

壊れた景色を眺めて

時間を忘れて景色を眺めていた時に祖母から着信が入り、家に戻ることにしました。

それからおばちゃんは「納言ちゃん、他に見たいところあるきゃ?」と聞かれたので、行ける範囲で町並みを見せてもらいました。

崩れた家に凸凹の道路、そして石川に行けば必ず寄っていたスーパーにも連れて行ってくれました。

人が住んでいるように見えない悲惨な場所へと変わってしまったけれど、所々に「がんばれ!能登!」と旗が掲げられ、お店にはステッカーが貼られていました。

けれどもその場所でさえも、人の気配はありませんでした。

久しぶりの団欒は

おばちゃんにあらゆるところを見せてもらい、私たちは仮設住宅に帰ってきました。

途中で立ち寄ったスーパーで祖母は魚と肉を買って、「今日は焼肉をやろう!」と嬉しそうに言ったのです。

父が帰宅し、叔父も帰ってきたところでみんなで小さなテーブルを囲みながら2人用のホットプレートで焼肉をしました。

叔父は彼に、「ましゅうと酒を飲むのが楽しみやった」と言いながら、嬉しそうに何度も何度も彼と乾杯をしていました。

暗く寂しげな表情の祖母も、お肉を頬張りながら嬉しそうな表情を浮かべていました。

石川県に来て、久しぶりの団欒を感じた瞬間だったのです。

震災を忘れない

昔は年に2回、夏と冬に必ず珠洲に帰っていました。あの家が大好きで、あの場所が大好きでした。

震災後は大好きな家も場所も、まるで知らない場所のように変わってしまいました。復興とは程遠い姿のまま、いまだに全てが取り残されているように見えてしまうのです。

それでも珠洲にいる人たちは、互いに支え合い、自分たちのことよりも周りのことを気にかけながら生活をしています。仮設住宅の生活も、いまだに避難所で生活されている方も不自由の中で暮らしているけれど、たまに外に出て来ては私たちにも声をかけてくれた人もいました。

そして今の現状を、生活の状況を教えてくれたり、祖母のことを話してくれる人もいました。

そうやって互いに寄り添いあって生きていることを、改めて痛感する2日間となりました。

7ヶ月を過ぎたあたりでニュースで取り上げられても、今ではまた過去の話のように時間の流れと共に忘れ去られようとしている。

だからこそ、ワタシにできることはこうして現地に向かい、文章を通して今の現状を伝えることだと思っています。

この景色は他人事ではありません。

そして今は平和に過ごしている私たちの場所でも、もしかたら同じことが起きるかもしれない。大切なことは、あの震災を忘れずに記憶と記録に残し続けることだと思うから・・・。

最後に

ワタシはこの震災直後から、自分なりに何かできることはないかと模索し続けていました。そしてその方法が、文章だと思っています。少し前に応募した「ノンフィクション賞」がその第一歩だと思っていたほど・・・。

しかし、大人の事情も含めてその願いは叶えられませんでした。

ワタシが応募した作品は結果的に賞を取ることができず、そしてまた振り出しに戻った状態となっています。

無力な自分を嫌い、そして運の無さを呪ってしまいそうになりました。

けれども今回の状況を見て、改めて諦めずにやり続けることを決めたのです。

賞を取ることはできなかったけれど、また別の出版社やあらゆる媒体に自分の作品を出していこうと思います。

そしていつか本が出版された時には、珠洲の復興支援に充てられるようにこれからも書き続けていこうと思います。

ワタシにしかできないやり方で、ワタシなりの寄り添い方ができるように。

応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

振り出しに戻ってしまったけれど、それでもいつかワタシの本を手に取ってくださった皆様の思いごと、能登に届けられるようになれたらと思います。

古書みつけ
(今回応募した古書みつけの賞の結果の詳細リンクです。)

ナイーブな私に勇気をください

  1. ぴろし より:

    詳しい現状、ありがとうございます。
    生の声が欲しかったです。
    シェアさせていただきます。

    • 読んでくださり、ありがとうございます。
      こうして文章を通して現状を知ってもらえること、とても嬉しく思います。
      ワタシの方こそ、ありがとうございました!

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