ワタシは不適切保育をやりかけた

保育士時代の体験談・過去のトラウマ

保育士が悪い意味で注目され始め、虐待や不適切保育で逮捕されるニュースを見ることが増えたような気がします。

それ以外にも保育の環境に限界を感じた保育士たちが、一斉退職することを選ぶこともありました。

今までは「優しくて、どんな子どもにも愛を持って接している」それが世間での保育士像だったかもしれません。

少し前だったら、こんな風にニュースに取り上げられることもなければ、逮捕者が出ることもありませんでした。

だからと言って、不適切保育がなかったわけではないし、もしかすると虐待スレスレのことをやっていてもバレなかっただけの話かもしれません。

きっと疲弊した現場で働いている保育士さんたちは、目を覆いたくなる状況を一度は目の当たりにしているような気がするから。

そして、ワタシ自身もたった一度だけ虐待の一歩手前まで行きかけたことがありました。

集団生活の中で

保育園には、あらゆるお子さんが通っています。中には発達障害と診断されたお子さんもいれば、知的障害を抱えながら保育園に通っているお子さんもいました。

中には、グレーと呼ばれる(発達障害の疑いがあるけれど、診断がされていないお子さん)も数名クラスの中にいることもあります。

乳児クラスのように複数担任ではなく、幼児は1人でクラスを受け持つことになり、あらゆることを考え、全ての子どもたちが楽しく安心して過ごせる環境を作りながら保育をしていく必要がありました。

ただハンデを持っているお子さんには、「みんなができること」ができないこともあります。

言葉がうまく出ず、発達もゆっくり進んでいる子は、視覚的に伝えるために簡単な単語と絵カード(伝えたい動作が描かれているカード)を使いながら、伝えることもあります。

また音に敏感だったり癇癪を起こしてしまったりする子には、1人になれる場所をクラスの一箇所に作り、心を落ち着かせられるような配慮をすることもあります。

一対一の関わりであれば癇癪を起こすことがあっても、ゆったり関わることができますが、集団生活の中で25人程の子どもたちと過ごす中では、手厚く関わりを深めていくことに限界を感じる瞬間もありました。

関わり方がわからなくて

幼児クラスになり、1人のハンデがある子がいました。些細な物音や声で一気に癇癪を起こし、突然部屋から飛び出してしまうことがありました。

さらに、パニックになったと同時に全ての服を脱ぎ出そうとしてしまうことがあり、一度クラスの活動や話を止めて、その子を追いかけていかなければなりませんでした。

人手が足りる時であれば、パートの先生やフリーの先生に声をかけることもできましたが、いつも手が空いてるわけではありませんでした。

行事前の練習の時に癇癪を起こすこともあり、練習を全てストップさせてしまうこともあります。

あまりにも癇癪がひどく、1人での対処に限界を感じたワタシは、当時の園長に相談することにしました。

クラスの状況と、お子さんとの関わり方、あらゆる場面での不安なども話した気がします。

しかし、返ってきた言葉は「担任なんだから、それを全て対処するのがあなたの役目でしょ?他の先輩たちは当たり前のようにやってるのよ。それは少し、甘えなんじゃないの?」と。

その瞬間、ワタシの中で何かがポキンと折れた音がしたのです。

癇癪を起こすのは、いつも突然

まるで何もやっていないかのように言われたことが悔しくて、そして悲しくもありました。

どうしたらクラスの子たちが楽しく過ごせるか、ワタシなりに毎日考えていました。ハンデのある子のことをもっと知ろうと、書店に行って障害児についての本もたくさん読んでいました。

できる限りの環境設定を整えて、できる限り楽しめる遊びや玩具も手作りして色々な方法を試してもみました。

けれども、努力でどうにかなるものではなく、それは一つの個性であり特性でもあるから、努力で「治る」ものではないんです。

癇癪がいつ起こるかなんてわかりません。給食の時に誰かがお皿を落とした音で始まることもあれば、楽しげな声が大きかったことで始まることもあります。

いつもと雰囲気が違えば癇癪が起き、馴染みのない先生が部屋に入ってきたら癇癪を起こす。

さらには、給食の時に嫌いな野菜が出たらひっくり返って怒ってどこかで行ってしまいそうになることもありました。

その度にワタシは食事を止めて、落ち着かせるために手の空いている先生を大声で呼びながら一対一の関わりを取らなければなりませんでした。

それは園長から、「あなたのクラスの子なんだから、癇癪を起こしたらクラスは他の先生に任せて、あなたが一対一で対応をしなさい」と言われていたから。

限界を迎えた、あの日

それからと言うもの、給食で苦手なものが出るたびにワタシは一対一の関わりを取っていました。行事前でも癇癪を起こせば落ち着くまで対応に追われていました。

まだ泣けてしまうだけならよかったのですが、一度パニックを起こしてしまうと、服を全て脱ぎ出してしまい、ひっくり返って暴れてしまうこともありました。

他の子に当たるのを防ぐため、そして脱走を防ぐために抱っこの形をとり、落ち着かせるようにしていました。

しかし、それはそれで今度は矛先がワタシに向いてしまい、制止をしている間にあらゆるところを蹴られて、殴られることもありました。

痛みに耐えながら、そして無理に制止をするような形に罪悪感を感じながら心の中では(ごめんね、ごめんね)と謝っていました。

それがほぼ毎日続くようになってからは、ワタシも給食を食べることもなく1時間以上も抱っこの状態で耐える日々が続いたのです。

そしてある日、パニックになりながら振り上げた足がワタシの顔を目掛けて飛んできたのです。鋭い痛みとドーンと重くのしかかった痛みで、一瞬目の前が真っ暗になってしまいました。

その瞬間に、我を忘れて「もうッ!痛い!」と怒鳴ってしまったのです。

理性の先に

その声に余計に癇癪はひどくなり、ワタシも限界を感じて理性が一瞬飛んでしまいそうになりました。

あのまま理性を失っていたら、手が出ていたかもしれません。

あの瞬間、ワタシはぎゅっと自分の手の平に爪の跡が残るほど拳を握り、下唇を噛みながら涙を流しながら耐えていました。

そしてゆっくり深呼吸をしながらもう一度、その子を優しく抱きしめて「大丈夫。大丈夫だから」と声をかけ続けました。

時間はかかりましたが少しずつ落ち着きを取り戻し、部屋に戻ることができたあと、その子は給食を食べ終わることができたのです。

限界と常に隣り合わせ

ニュースを見るたびに、ワタシも片足を突っ込んでいたと思うことが多々あります。

現場の状況や疲弊した環境、そして自分自身のメンタルと照らし合わせても、あのまま続けていたら、いつかニュースに出ていたのはワタシだったかもしれません。

全ての虐待や不適切保育が許されるわけではありません。

配置基準の話とか仕事量の多さとか、色々なことが原因として言われていますが、当時のワタシに欲しかったものは、寄り添いの言葉でした。

突き放す言葉ではなく、先輩たちは当たり前にやっていると比較する言葉でもなく、「そんな状況だったんだね。障害を持っているお子さんのアプローチは難しいよね。でも、きっと先生の想いは伝わってると思うから、一緒にいい方法を探してみようか」そう言って欲しかった。

そして、クラスの子たちにもしっかりと関われる時間も確保させて欲しかった。

それが何より欲しかった言葉であり、行動でもありました。

まだまだ保育の現場では、書ききれないほどの苦悩や苦労がたくさんあります。大前提に子どもに手を上げることは間違いだけど、スレスレの状態がある事実もワタシは伝えていかなければならないと思うんです。

健常児だろうと障害児だろうと、みんな可愛い子どもたちには変わりがありません。その子たちの笑顔を守り続けるためにも、保育士たちの心の声に耳を傾ける時が来たのだと、ワタシは思うから。

ナイーブな私に勇気をください

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