約1年ぶりに訪れた第二の故郷は、まるでワタシの知らない世界のようでした。
今まで当たり前に建っていた家は、まるで瓦礫のように崩れ去り、道を進むにつれて跡形もなく消えてゆきました。
かつては近所の人たちの声や、小さな子どもたちの笑い声もあった場所には、微かに聞こえる波の音だけとなりました。
大好きな石川県の風景は、見るも無惨な姿のまま残されている状態だったのです。
能登半島地震から
未曾有の大地震から3ヶ月が経ち、どこもかしこも地震のニュースばかりだった震災直後。
けれどもたった3ヶ月経っただけで、地震の話はあまり聞かなくなってしまいました。
いつしか能登半島地震は過去のものへと移り変わろうとしていたのです。
現地の人たちがどのように生活をしていて、街並みはどのように変わっているのかがまるでわからない状態となりました。
道は通れるのか、崩れた家は取り壊されているのか、仮設住宅が出来上がりほとんどの人が移り住んでいるのか、それさえもわからない状態でした。
決意を固めて
地震直後から何度も石川県に行こうと考えましたが、あまりにも情報が少なすぎることもあり、中々訪れる目処すら立たない状態だったのです。
ボランティアを考えてみても日程が合わず、さらにはそう簡単に行けるような状況でもないことから行きたい気持ちと、行けない事実の狭間で何度も悩むこともありました。
そんな時、珠洲市に住んでいる叔父から「仮設住宅が完成した」と情報が入りました。
ワタシの祖母は地震発生からすぐに父が迎えに行き、三重の叔母の家で仮設住宅ができるまで住んでいました。
何度も「帰りたい」と涙ながらに話す祖母をなんとか説得して、仮設住宅ができる日までいてもらうことにしました。
そしてようやく、この4月に仮設住宅に移るために石川県に送る日程が決まったのです。
初めて訪れた震災後
石川県に向かう日程が決まった時、ワタシと彼も父について行くことにしました。
この目で確かめたかったんです。自分の故郷がどのようになっているのか、今どんな状況になっているのか、行って知りたかったんです。
もちろん葛藤もありました。
大好きな場所が地震によってなくなってしまっている現実、思い出の詰まった家の倒壊、その全てを確かめなければいけないことに。
それでも間接的に聞いている情報ではなく、自分の目で確かめて、きちんと向き合いたかったんです。
地震の恐ろしさも、そして当たり前の日常が当たり前でないことも含めて。
変わり果てた場所
石川県に向かう道中は、祖母も含めてたわいもない会話の中で過ごしていました。
しかし、少しずつ奥能登に近づいていくにつれて、想像以上の景色が広がっていったのです。
そこには地震発生当時のまま、何一つ変わらない景色が取り残されているようでした。
まるでここだけ、時間が止まっているかのように・・・。
家は崩れ、車は曲がり、そしてガラスや木材が散らばりながらも一箇所に集められている。どの家にも張り紙が貼れており、中には電柱さえも曲がったままいつ倒れてきてもおかしくない状況でした。
崩れているのが当たり前、壊れているのが当たり前、道路が陥没しているのが当たり前。そんなあってはならない当たり前が、目の前に広がっていたのです。
思い出の家は
かつて親族たちで集まり、談笑をしていた思い出の家は、見るも無惨な姿へと変わり果てていました。
床は抜け落ち、空が見える状態の場所もあれば、家具や家電が倒れてしまい、通れなくなってしまった場所もありました。
慣れ親しんだ家は廃墟と化し、足の踏み場もほとんどない状態になっていました。
そしてもう一つ、この地震の影響で、見知らぬ誰かが私たちの思い出の家からありとあらゆるものを盗んで行ったことを叔父から聞かされました。
トースターも電子レンジも、今まで使っていたあらゆるものがなくなってしまったそうです。
被災した誰もが困難な状況にいることは、わかっています。
けれども、こんな時だからこそ協力していかなければならないはずなのに、それさえもわからなくなってしまう現実が、盗まれていったものたちによって突きつけられているようでした。
無事に送りとどけて
思い出の家を後にして、私たちは仮設住宅へと向かいました。
簡易的な家ではあるけれど、必要最低限の家電があり、トイレもお風呂も備えられていました。
しかし、大勢の方々が避難されていることもあり、普通の家のようにはプライベートが確保されているわけではありません。
被災地に向かい、ニュース以外で初めて現実を目の当たりにしたワタシですが、あの震災から何一つ変わっていないことを痛感することとなりました。
一度県をまたげば、あたり前のように自分の家があって、プライベートが確保されていて、好きな時に出かけたり、自分の時間を確保することができている。
けれども、今もなお被災地で過ごされている方にとって、それがどれだけ恵まれている環境なのかを知ることとなったのです。
満開の桜を背にして
石川県の町では、ちょうど桜が見頃の時期になっていました。
潰れかけている家や瓦礫だらけの場所にもポツンと桜が立っており、綺麗な花を咲かせていました。
春の訪れを喜んでいるように咲いている桜の花と、静かな街並みのコントラストは異様な光景が映し出されていました。
なんともいえない景色を見つめ、私たちは石川県を後にしました。
今でも地元の方々は、大きく残された地震の爪痕と共に生きています。
ニュースでは全く聞かなくなった震災の様子も実際に行ってみると、何一つ現状が変わっていないことは明らかでした。
「何か役に立てることがあれば」そう思っても、自然の前では人間は無力だということを感じざるを得ませんでした。
けれども能登の町の至る所に、「負けるな!がんばれ能登!」とステッカーや旗が掲げられていたのです。
いつもまでも忘れずに
今もなお、被災地では苦しい生活の中で懸命に前を向き、必死に生きている人たちがいました。
自分の家がなくなり、思い出の場所がまるで違う世界のようになっても、それでもかつての場所になるようにと、地震と向き合いながら当時の恐怖と戦いながら過ごしていると思います。
被災していない私たちにできることは限られているかもしれない。
けれども、あの未曾有の大地震を忘れることは絶対にしてはいけないと、改めて感じたのです。
たった一人の力で何ができるかなんて、正直わかりません。
けれども、大切な故郷をこれからも何度か訪れることによって、できる限りのことをしていきたいと思います。
いつか、被災地の方々が心から笑える日が来ることを願いながら、本当の意味で復興する日が来ることを祈りながら、ワタシはこれからも大切なあの場所に帰ろうと思います。
この気持ちをいつまでも忘れないように、大切な思い出たちを胸に刻みながら。
ナイーブな私に勇気をください