昔は生きる意味を探すことに必死でした。
自分の生きている意味に理由を探してみたり、人生の使命みたいなものを見つけようとしたり、あの手この手で「生きる意味」を模索していたんです。
けれど最近になって、いや、大人の階段を一歩ずつ登り始めてから「生きる理由は、あらゆるところから寄せ集めて、できていくものじゃないのかな」と思うようになりました。
大義名分がなくても、大きな使命感がなくても、それっぽい理由を寄せ集めたら十分生きる理由になるような気がしているのです。
そして「生きている」と感じる瞬間も、大きな出来事があった時よりも些細な日常生活の延長で感じることが多いような気もするのです。
お腹が空いた時
ワタシは昔から食べることが大好きでした。保育園で働き始めた頃なんかは、給食だっておかわりしていたし、お菓子も、スイーツも、別腹といった感じで沢山食べていました。
けれども病気を患ってからは、ご飯を食べることが面倒になり、量も少しずつ減らすようになりました。あれだけ食べることが好きだったはずなのに、食べることよりも目に見えて減っていく体重と角ばっていく骨と体の細さが嬉しくなって、ますます食事を減らすようになりました。
食べる量が減って、体が痩せていくようになってからは「生きたい」というよりも「消えたい」と思うことも増えていったと思います。
周りがどれだけ「少しでも食べたほうがいい」と言っても、その言葉に反発するように量を減らすことに一生懸命になっていたと思います。
その癖は何年経っても戻ることはなく、今でも一人前の食事を完食することは難しいです。しかし、過去のワタシと違うことは、「お腹がすいた」と感じられるようになったことです。
過去にはどれだけお腹が空いたとしても、食べ物を見ただけでうんざりしていました。けれども今では、お腹が空いた時には、ちゃんとお腹が空いているんです。沢山は食べられないけれど、食べた後の幸福感と満腹感を感じられるようになっています。
その時に思ったんです。「あぁ、今ワタシは、生きてるんだなぁ」って。
笑っている時
笑うことは簡単にみえて、実はとても難しいことだと思っています。心が泣いていたら笑顔になることはできないし、心の中が分厚い雨雲で覆われていたら、いつ晴れるかなんてわからない。
そんな状況で必死に笑顔を作っていると、いつしか本当に楽しい状況でも笑い方を忘れて、感情の出し方も忘れてしまいます。
だから余計に辛くなったり、生きている意味が見つけられなくなってしまうこともありました。
今だって完全に心の霧が晴れているわけではなくて、ごくたまに分厚い雲に覆われてしまいそうになる時があります。けれども昔とは違って、その雲がいつまでも心の中でとどまることはなくなりました。
時間をかけて少しずつ流れていき、少しずつ心の隙間から晴れ間が見えるようになっていったのです。
誰かと笑い、自然と笑顔が溢れた時、ふと「生きている」ことを感じるのです。
何もしない時
何もしないことは、結構ハードルが高いものでした。
頭の中が忙しすぎるから、いくら体はだらっとしているように見えても、頭の中が高速回転していて、気を抜くとすぐによからぬことを考えてしまいそうになっていたからです。
頭と体がチグハグな動きをしていて、どうすることもできないし、止めることもできなかった。だから、仕方なく考えすぎた頭が疲れていくのを自然に待つしかできませんでした。
何もしないは、ワタシにとってはかなりハードルが高かったんです。
常に何かに怯え、考え、そしてあらゆる行動を制御していくように体はズーンと重くなっていく。今のように何もしない時間を楽しむ余裕なんてなかったのだから。
我慢なんてしない
もう一つ、生きる理由を見つけられたのは、「我慢することをやめた」時でした。
心無い一言を言われた時、理不尽なことをされた時、自分の気持ちを蔑ろにされた時、そんな時は「ワタシが悪いんだ」と一番に自分のことを責めていました。
それくらいしか、心を保つ方法がわからなかったのかもしれません。
どれだけ間違ったことをされても、どれだけ傷つけられたとしても、その言葉が全てだと思って受け入れていました。
だからやめたんです。
我慢することも、相手の言葉に一つひとつ傷ついて自分を卑下することも。
間違ったことをしている人には、気持ちを伝えるようにしました。「あなたのやっていることは、間違ってるよ」って。
「それは本当に、誰かのことを思ってやっていることなの」って。
自分の意見を言う瞬間も、相手からの反応を見ている時も、それはもう手汗が止まらないほど緊張もしているし心拍数が一気に上昇しているように体が熱くなっていくような感覚に襲われます。
けれどもようやく気づいたんです。
自分を否定する材料を探すことに一生懸命になるのではなく、人を傷つけることに全力を尽くすような相手には、自分の思いをきちんと言葉で伝えることが大切だと。
生きる理由を、集めながら
病気の真っ最中だった時、探していたのは生きる理由ではなく、消える理由でした。
どうすればこの世と別れを告げることができるか、どうすれば簡単に消えることができるのか。
死にたいではなく、消えたいという気持ちが全てでした。関わってくれた人たちの記憶からも、今まで生きてきた証も、全て消してしまいたい。そう思っていました。
だから生きる理由なんて、探す余裕もありませんでした。
ただ、心のほんの隙間に余裕が出始めるようになって、少しずつ見える景色が変わり始めた時、「消えたい」という気持ちから「生きてみたい」という気持ちに変わっていったのです。
今まで見向きもしなかった感情を感じられるようになったり、できなかったことが案外簡単だったことにも気づきました。
それでもまだまだ、生きる理由を集めるには時間がかかりそうな気もしています。
きっと長い年月をかけて、一つひとつ寄せ集めながら「生きる意味」を探していくことが人生なのかもしれません。
もう少しだけ、集めてみようと思います。
自分だけではなく、あらゆる人の手を借りながら人生を生きてみたいから・・・。
ナイーブな私に勇気をください
生きる理由を読んで
納言さんの今回の内容がなつかしく感じます。そのようになぜ感じるかについては、幾度となく感想コメントで私自身の過去を書いてきたので割愛します。
今現在も自分自身の本質はかわりなく、そのようなことを考えたりすることはありますが、私も以前とは少し違うように思えます。
どのように違っているのか、些細なことで今現在の自分自身を客観的に見て感じられるようになりました。私は昨年からSNSなるものに投稿するようになりました。
SNSを始めた時には、なかなか良い笑顔を作れなくて諦めていましたが、ふと動画を撮りながら笑ってみたら自然な笑顔が撮れました。なんた、動画を切り取れば良いと言うことに、後れ馳せながら気づきました。笑
それから大変自然に楽しんでいる自分自身の笑顔を、投稿することができ大満足しました。
そこでです、私は満足感を感じるとともに客観的に楽しく笑っている自分自身を見つめることができ驚きました。
以前、お笑いの芸能人の方が、自分の出演した番組の録画を見ながら、大笑いすると言うことを聞いたことがありますが、私自身、色々なことをやっている自分を見ながら、笑ったりするとは思いませんでした。笑
そこで、ふと思いだした好きな言葉
『今、目の前にある自分しか感じられないこの人生で、たくさん挑戦したくさん感じると言うことを経験として楽しむというのが、私が自分のためにできる最大限の生きる目的である』
のかもしれませんね。
ありがとうございます。