リクエスト企画「自信と卑屈」

コラボ企画

今回のテーマは、「自信と卑屈」についてです。

これまた、私が人生の中で最も時間を割いてきた悩みの一つでもありました。

卑屈になりたくないけれど、つい気を抜くと卑屈になってしまう。

本当はもっと違う言葉を発していきたい、態度に示していきたい。そう思うことが何度もありました。

今回はその気持ちを文章で綴りたいと思います。

それでは、スタートです。

怖がることを知らなくて

まだ幼かった頃、今の私にはない「自信」という花が心の中で常に咲いていました。

それはいつも好奇心の芽が出て、喜びの水を与え続けることで「自信」という花が咲いていたんです。

何をするにも「ワタシならできる。これはきっと楽しくなるぞ!」と常に心がワクワクしていたんです。

だから「ワタシになんてできるはずがない」とか「こんなことどうせ無理に決まってる」そんな言葉を口に出したことは一切ありませんでした。

大人からした高い壁であっても、子どもの頃のワタシにとっては簡単に飛び越えられそうな小さな段差にしか見えていなかったんです。

経験を重ねていくうちに

その気持ちは小学生の低学年までは、持ち続けていました。

しかし、同級生たちが突然大人の真似をするようになってから、初めて「卑屈」という花が咲き始めました。

それは自分で水をあげたわけではなく、誰かの心無い言葉によって自然と成長するようにできていたんです。

そして高学年に上がる頃には、「人は誰もが平等ではないんだ。容姿や運動能力、そういうもので区別をされるようになるんだ」そう感じる日々が増えていきました。

子どもたちの世界に意地悪な大人が突然現れて、その大人がさらに「かわいい子には、優しくするものだ。運動ができて人気者には、ひいきするものだ。だから子どもであっても区別をするのは当然だ」と態度に出して教えられました。

それからでしょうか。

ワタシの心の中にかろうじてあった「自信」の花が、全て枯れ果ててしまったのは。

羨ましくてたまらない

大人になればより一層、人を見た目で判断する人に出会い、そしてもっと汚いことを考える人にも出会いました。

その度にどんどん「卑屈」の蕾は成長して、黒い花を咲かせていきました。

除草剤を撒いたとしても、新たな出来事が起きるたびに「どうせワタシなんて」と蕾を咲かせるきっかけを作ってしまったんです。

この時には、常に誰かと比べて、自分にないものばかりを追いかけていました。

そして何度も自分を責めていました。

「あの人にはあるのに、どうしてワタシにはこんなに何もないんだ。どうして人生がうまくいかないんだ。同じ人間なのに、どうしてこうも区別されるんだ。悔しい、悔しい、くやしい・・・。ワタシはただの出来損ないなんだ」そう思うことしかできなかったんです。

いつしか卑屈の花は、ワタシの心まで支配するようになりました。

自信を持たせないように、常に誰かと比べて劣等感を味わうように。

決して前向きな言葉は思い出させないように・・・。

卑屈の心を育てて

自信があった頃、人のことを気にしたことはありませんでした。

いつも気になるのは、「自分がどうしたいか。自分がどうなりたいか」その二つだけでした。

周りに構っている暇なんてなかったんです。

それだけ自分のことで一生懸命だったから。

けれども、成長するたびに悲しいことを味わうたびに、思い知らされていきました。

「自分のことを見ることは、とても恥ずかしく、みっともないことなんだ」と。

そして周りもそうやって言葉をかけてきました。「自分のことしか考えられないの?」とか「自己中って自分のことばかりを考える人のことを言うんだよ」そう言われるたびに、(自己中にだけはなりたくない。もっと人のことを考えないと。もっと誰かのために生きないと。もっと、相手に気分良く過ごしてもらわないと)そう暗示をかけていたんです。

そして今まで関わってきた人たちは、誰も教えてくれませんでした。

「誰かと比べる必要なんてないんだよ。自分がどうしたいかを一番に考えないとね。だって自分の人生なんだから、誰よりも自分のことを好きでいる自信を持たないと」と。

自信の花を咲かせる日まで

色々なことを経験したからこそ、ようやく「自分を好きになる」ことが自信につながる第一歩だと気づき始めています。

自分にないものを持っている人を羨ましがったところで、ワタシはその人にはなれないんです。

自分と全く違う容姿をしている人になりたければ、もっとお金をかけて、時間をかけて、全てを注ぐ必要があるかもしれない。

けれどもそこまでしたいほどの、熱意も持ち合わせていません。

きっとどこかで言って欲しかったんだと思います。

「自分に自信を持つことは素敵なことだよ」って。

「そのままのあなたでいいんだから、比べる必要なんてないよ」って。

その言葉をずっと待っていたのかもしれません。だから、余計に言って欲しい言葉と反対の言葉を投げかけられたり、態度で示されたりするたびに卑屈になっていったのでしょう。

それはワタシが、自分以外の誰かに過度な期待を寄せすぎたことにも関係しているのかもしれません。

自信は他人が作ってくれるものではなく、自分自身で作り出す必要があるから。

これから先は、少しずつ言葉をかけて、丁寧に水やりをしながら自信の花が咲く日を待ってみようと思います。

自分という存在を心から信じられる、その日まで・・・。

ナイーブな私に勇気をください

  1. TK1979 より:

    自信と卑屈を読んで

    自信は自分自身で作るもの

     私は生まれながらの先天性骨格奇形があります。内容については省略しますが、被服を着用している限りほぼわかりません。
     他の人と違うと気づいてからは、わからないように隠す人生がはじまりました。当然卑屈になり続けました。今も基本的にはかわりません。
     結果から述べますと
    『それはそれで言わなければわからないし、いちいち他人がそこまで見ないし、私がそうだからとして何もかわらない。』
    と今は思っています。しかし写真などを撮るときはなるべくベストの角度から撮るようにしています。ま、少しは今でも気にしていますが、卑屈になったりはしません。笑
     中高生の時は頼むからばれないでいてほしいと思いながらドキドキの連続で卑屈のかたまりでした。笑
     そんな私を変えたのが自分自身で作り出した自信でしょうか。
     同じ境遇の方を見ていると、何も変わりなく、隠す素振りもなく皆と笑っているではありませんか。
     私は、この上ない驚きとその方の自信に満ちた笑顔に魅了させられました。
    『こ·ここれだ』
    卑屈な自分は自分自身が作り出した幻影ではないか!
     それから肩の力を抜いて、わかったとしても何も変わらないと信じるようになりました。
     今回のリクエストはデリケートなものが多く、また納言さんのデリケートな考えも読めて大変有意義な時間を過ごしています。
     ありがとうございます。
     

    • いつもコメントをくださり、本当にありがとうございます。
      このリクエスト企画を行うことで、今まで見えてこなかった気持ちをワタシ自身が知るきっかけの一つとなっているような気がします。
      誰かが渡してくれたパスを受け取って、ゆっくり咀嚼をする作業を行なっている気分です。
      それでもたまに、卑屈な心が現れたり、自分ではどうしようもできない感情に飲み込まれてしまいそうになります。
      その整理のためにも、今はいろいろな人の言葉を借りながら、時には応援してもらいながら書く作業を続けているんだと思います。
      デリケートなことを声に出すことは難しくても、言葉にすると自然と話したいことが整理していく。
      エッセイがその役割を担ってくれているのかもしれません。

タイトルとURLをコピーしました