勇気をもらった発表会

保育士時代の体験談・過去のトラウマ

幼稚園を途中で辞めてしまった私は、もう一度保育士になりたくて、最後のチャンスだと思い選んだ場所が実家の近くの保育園でした。

面接を受けてすぐに採用が決まり、4月から契約社員として働くことになりました。

初めの頃は右も左も分からないし、幼稚園の時のトラウマが残っていたから、常にビクビクしながら迷惑をかけないようにすることだけを考えながら、仕事をしていたような気がします。

しかし幼稚園とは違って、先生たちも優しく仕事のやり方や子どもの接し方を教えてくれたので、少しずつ保育士という仕事に本当の意味でやりがいを感じるようになっていきました。

保育園で働き始めて2年が経ったある日、当時の園長先生から「もし良かったら任期つき正社員の試験を受けてみない?」と提案をされました。

二つ返事でお願いをして、園で実施された試験を受け合格した私は、翌年、任期つきの保育士として働くことになったのです。

やりがいの中で

正規の保育士になって一番初めのクラスは、乳児の担任でした。

不安を感じながらも先生たちの支えがあり、自由に好きなことを楽しみながら、子どもたちと接することができた一年でした。

翌年の配置で年中・年長の縦割りクラスの担任を任されることになったのです。その時の感情は、嬉しい気持ちと不安な気持ちの交互が入り混じっていたような気がします。

しかも同じ学年になった人たちは、園の中でも仕事ができると言われており、余計に足を引っ張らないか、保護者の方に迷惑をかけないか、そんなことばかりを考えていました。

しかし新学期が始まると忙しさでそれどころではなく、1日を無事に終えることで必死でした。

目まぐるしく過ぎていく日常と、覚えなければならない仕事の数々に、家に帰って寝る間も惜しんで仕事のことばかりを考えていました。

春が過ぎ、夏がやってきて、あっという間に秋も過ぎ去ってようやく冬を迎えた頃、ある事件が起きたのです。

忘れもしない、心に大きな傷を負うことになった出来事を。

2人きりの遊戯室で

当時の発表会は、踊り、劇、学年ごとの合奏と歌で構成されていました。

初めてのことで、先輩たちにやり方を聞きながら遅れないように、毎日案を考えながら踊りの振り付け、構成、劇のセリフ、立ち位置などを一生懸命模索する日々でした。

劇の役決めや、踊りの振り付けも決まり練習も少しずつ進んでいたある日、主任に踊りの振り付けを見てもらう機会がやってきました。

各クラスが順番に主任に見せながら、意見をもらい修正を行っていく大事な機会です。

まずは先輩たちが踊りを見せると、少しだけ修正が入りながらも「さすがベテランね!よく出来てるわ」と褒められていました。

そして私の番になり、主任に一通り見てもらうと、腕を組みながら一言「ちょっとA先生を呼んできて」と言いました。

その言葉と雰囲気で全てを悟った私は、園庭で遊ぶA先生の元へ駆け寄り、勝手に流れてしまう涙を堪えることができず「すみません、もう一度踊りを見せてください」とお願いをしました。

私の姿を見た先輩は、驚いたものの「すぐに行くね」と言って、もう一度遊戯室で踊りを披露しました。

「さすがA先生!経験が違うわ。分かる?こういうことなのよ。A先生、ありがとね。もう戻っていいよ」と言って、私だけが遊戯室に残されました。

すると主任は、私の顔を見ながらある二択を提案してきたのです。

もしも私の言うことを聞かなければ、保護者からクレームが来ても『あの子が勝手にやったことだから』って言うからね。

けど、あなたが私の言うことを聞いて従ってくれるのなら、もしも保護者からクレームが来ても『あの子も初めてだから、許してあげて』って言ってあげる。

二択を突きつけられた時、答えはもう1つしかないと分かっていたけれど、改めて頭を下げて「教えてください」と言いました。主任は、とても満足そうに「そう?なら、教えてあげる」とだけ言って、この日はクラスに戻ることになりました。

クラスに戻ると心配したA先生は「大丈夫?」と声をかけてくれましたが、その優しさに涙が出てしまいました。その姿を見て「あなたの考えた踊り、私はよかったと思うよ。ちゃんとできていたし、子どもたちの個性も出ていたよ」と慰めてくれました。

発表会の練習に入る前から、噂は聞いていました。

主任は毎年ターゲットを1人決めて、自分の思い通りにできるようにするということを。そして学年の中で一番若かった私が、今年のターゲットにされたということも理解した上で、悔しくて悲しくて涙が止まりませんでした。

その日私は、園の中にある倉庫の中で少しだけ泣きました。

個別指導の日々

その日から、毎時間呼び出されて踊りの指導や位置の指導をされました。

私の考えていたものは原型がなくなり、全て主任の思い通りに変更されていきました。職員室に呼ばれてすぐに「音楽かけて」と言われ、「はい」と言う毎日。私の意見は、何一つ反映されることも聞かれることもありませんでした。

そんな日々が続きながらも、言われたことを精一杯やりました。

発表会まで二週間を切った頃、先輩たちのクラスは仕上げに差し掛かり、ほとんど完成している状態でした。

そんな中、突然「タップダンス入れなよ!あっ、ここも変えなよ」と二週間前にほぼ一からの状態にされてしまったのです。子どもたちも振り付けを覚えて、ようやく楽しんでくれるようになったのに・・・。

私は頭が真っ白になり、放心状態になってしまいました。主任は、新たなアイディアを思いついたことで、さらに「自分はやっぱり素晴らしい」と思っているような雰囲気を出していましたが、何1つ言葉が入ってこない私に対して、思いついた限りのアイディアをその後も言い続けていました。

彼女の中で、私の想いや子どもたちの頑張りなど、必要ではないのです。ただただ、自分の自己満足を満たしたい、それだけのような気がしてなりませんでした。

子どもたちに救われて

新たに振り付けを変えることは、子どもたちにも大きな負担になります。しかし、やらなければ怒られてしまう。

悩んだ私は、子どもたちに相談することにしました。

「あのね、みんなの踊りがとっても素敵だったから、少し難しい振り付けに変えてもいい?時間が少ないけど、どうかな」そう聞くと「大丈夫だよ!」「できるよ!踊り楽しいもん」と言ってくれたのです。

私は思わず「ありがとう、ごめんね。ありがとう」と涙をギュッと堪えて子どもたちに感謝を伝えました。

子どもたちにも、もしかしたら気づかれていたのかもしれませんが、誰1人文句も言わずに楽しんで練習に付き合ってくれました。そして本番一週間前に、タップダンスを入れた踊りは完成したのです。

その様子を見ていた他の先生は、「本当によく頑張ったね」と感動の涙を流しながら、子どもたちを、そして私を褒めてくれました。

けれども主任からは「まぁ、いいんじゃない?」とだけ言われました。

本番当日

前日に子どもたちと約束をしていました。

「明日は、間違えても忘れてもいいんだよ。でも楽しんできてね」と。その言葉通り、子どもたちは笑顔で楽しみながら踊ってくれました。その姿を舞台側から見ていた私の方が、涙を堪えることに必死でした。

発表会が終わった後、主任から「よく頑張ったね」と言われることも、何か言葉をかけてもらうこともありませんでした。むしろ、踊りのことなんてなかったかのように振る舞われ、私の初めての発表会は幕を下ろしました。

あの出来事は今でも忘れないし、毎日が本当に辛くて泣いてばかりいました。先輩たちと比べられ、心無い言葉を言われたり、保育に入れずに音楽をかける係をひたすらさせられた数週間は本当に地獄でした。

けれども子どもたちの笑顔が、頑張る姿勢が私に勇気を与え続けてくれました。

踊りの完成度や失敗しなかったことが成功ではなく、あの子たちが楽しんでくれたことが一番の成功だと思っています。

辛こともあったけれど、子どもたちのおかげで乗り越えることができた、そして今まで味わったことのない感動を味合わせてくれた子どもたちに、今でも感謝しかありません。

ナイーブな私に勇気をください

タイトルとURLをコピーしました