LITTLE MERMAID 幼き日の思い出

オリエンタル納言日常日記

悔しい時には涙を流し

怒りが湧き、虚無感に駆られた時にも涙が流れる

悲しい時には、心が沈むように涙の海が出来てしまうんだ

けれども感動を感じた時、私はどんな瞬間よりも綺麗な涙と共に幸福を感じる

涙は感情を写す鏡であり、心そのものであるから・・・

小さな頃の思い出を

幼い頃の私は、何を見ても無表情に近く、あまり興味を示さない子どもだったそうです。

心配した両親は、あらゆる場所に私を連れて出かけてくれました。だから、アルバムには母の癖字と共に、「納言ちゃんと〇〇へ行きました」と書かれていたんです。

しかし、アルバムには仏頂面で写る幼い私の顔が並んでいる写真ばかりでした。

そんなある時、初めてディズニーランドに家族で出掛けてみると、今まで興味を示さなかった私は、ミニーのSHOWをじっと見ていたそうです。

そこで両親は「この子は、ディズニーが好きなんだ」と感動し、それから毎年一回は必ずディズニーに連れて行ってくれました。

私の笑顔が見たい、楽しんでいる姿を見たい、その一心で・・・。

そして私が4歳の時、ある出会いが運命を変えます。

ある日父がパチンコに出かけて帰ってきた時、「これプレゼント」と渡されたのがリトル・マーメードのビデオでした。

父はパチンコで勝つと、必ずディズニーのビデオをお土産に持って帰ってくれました。家にある沢山のディズニー作品たちは父の戦利品です。笑

初めてアリエルを見た時、綺麗な海の中で優雅に泳ぐ姿に感動したのを覚えています。

海底には多くの人魚たちがいて、楽しげな音楽と景色にも魅了されました。

子どもだから、エリック王子との恋だったり、アリエルの想いや感情までを理解することは出来なかったけれど、「人間になりたい!陸の上で歩いたり走ったりしたい」という歌を聞きながら、「私は海の中を綺麗なお魚さんと泳いでみたい」と思うようになっていきました。

リトル・マーメイドを初めてみた時の、ワクワクやドキドキ、そして幼いながらに感動して涙を流した瞬間などは、今でも鮮明に覚えています。

それから私は、毎日のようにリトル・マーメードを見ることが生活の一部となっていきました。

いつかアリエルみたいに、人魚になって海底で泳ぐ日を夢見て。

私の中で、リトル・マーメードは人生で最も影響を与えてくれた映画の一つでもありました。

実写化を受けて

大人になってからも、アリエルへの憧れが消えたわけではありません。

YouTubeが発達し、実際に人魚体験をしている人たちを見て「いつか私もやりたいな」と思う気持ちは消えることはありませんでした。

そして、今年の2023年にリトル・マーメイドが実写化が公開されることを知り、心境はとても複雑でした。

それは幼い頃から憧れていたアリエルとは、異なる容姿をしていたからです。

今まで見続けていた彼女がリアルな姿になって、スクリーンに登場することに、世界中の人たちが待ち望み、そして期待をしていたでしょう。

けれども、現実世界に現れた彼女は、見てきた姿とはまるで違ったことに、違和感を隠しきれませんでした。

そこには、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)が大きく関係しているとさえ、言われるようになっていきました。

加熱していく報道と批判の声。

ただ純粋に原作を愛し、憧れていた夢は、とても現実的な批判と長きに渡った歴史的背景や差別に対しての抗議の声が聞こえてくるようになりました。

その中には、「差別をしたいわけじゃない。けれども原作の姿を変えてまで、ポリコレを入れようとすることに違和感を感じるの」という声もとても多かったです。

そして、私もその一人でした。

差別や区別をしたいわけでも、批判をしたいわけでもない。ただ、憧れだった彼女の忠実性を失うようなことをしたのかを、純粋に知りたかった。

そして、今回のポリコレが大きく肥大化してしまい、起きるはずもなかった差別や区別に対する発言が出るようになり、そして、気にしていなかった人たちでさえ、自分の夢を壊されたようだと、悲しみを訴えるような声が届くようになっていきました。

誰もそんなこと、望んでいないはずなのに。

最も望んでいない形が、この実写化によって起きてしまうことが、1番悲しかったのです。

自分ので確かめたいけれど・・・

ネットを見れば、実写リトル・マーメードの批判や疑問の声、映画を観に行った人たちの酷評などがありました。

中には、「素晴らしい映画だった」とか「小さい頃に見ていたアリエルそのものだった」と言っている人たちもいましたが、少数派の意見として取り扱われていました。

観に行けば、憧れが崩れてしまうことを恐れた私は、迷い続けていました。

しかし、断片的な批判や意見ばかりを見ても、それは私の意見ではないし、実際に観に行っていない私が、語ることは間違っていると思ったのです。

そして夫に「リトル・マーメードを観に行こうと思うんだけど・・・」というと、「一緒に行こうよ!どんな感じか僕も気になるから」と言ってくれました。

しかし、なかなか予定も合わず、そして若干気乗りもしていなかったからか、どんどんどん日にちは過ぎていってしまったのです。

父の一言

ある日、夫と私の実家に行った時、父は「納言、リトル・マーメード観に行った?すごく良かったぞ!色んな意見があるけれど、忠実に再現してある。大丈夫、お前が今まで見てきたアリエルだから」と言われました。

父は、私が行くのを渋っているのを分かったのか「小さい頃から見ていたものと同じだから」と背中を押してくれたのです。

その後も、映画の話を聞きながら納得できる部分が所々にあり、ここで初めて行く決心が固まったのです。

実際に映画を観て

2023年、7月5日。

この日は特に映画を観る予定はありませんでした。夫がパンフレットを買いたいということで、映画館に足を運んだ瞬間、(今日観ないと、もう二度と映画館で見られないかもしれない)そんな気持ちになったのです。

「あのさ、今日リトル・マーメード観たいんだけど」

「えっ!いいねいいね!!観ようよ。せっかく来たんだし」と急遽その日に、観ることとなったのです。

そして映画が始まる直前、私は緊張と興奮とそして少しの不安が頭の中をよぎりながら、そわそわしていました。

もしも、憧れのアリエルでなかったら。

原作と全く違っていたら。

そんなことを考えていました・・・が、結果どうなったかというと、映画のエンドロールには嗚咽をしてしまいそうなくらい号泣していたのです。

隣にいた夫は、スクリーンの反射でも分かるくらい驚いて、慌てて涙をハンカチで拭いてくれました。

映画が終わって会場を後にする時も、話そうとすると涙が込み上げて上手く話せませんでした。

ポロポロとこぼれ落ちてくる涙を、どう頑張ったって止めることができなかったのです。

涙のワケ

ようやく落ち着きを取り戻した時には、子どもみたいにヒクヒクなりながら、話すことが精一杯でした。

そして私が第一声に発したのは、「私の見てきたアリエルと変わりがなかった・・・。小さい頃に、父ちゃんがくれたビデオを擦り切れるまで見て、海底の中に憧れて、海の音楽にワクワクして、悲しそうな顔に不安を覚えて、最後のエンドロールで人間も人魚も関係なく祝福をするシーンで、泣いたことを昨日のことのように思い出したんだ。あれは、私が見てきたアリエルと同じだった」と。

「そうだったんだね。あの涙は、小さい頃からの想いと感動の表れだったんだね」

「きっと人それぞれに思い出があるし、憧れがある。観るまでは私も自分の大切な思い出を変えられたようで悲しかった。けど、実際に自分の目で確かめて見ないと分からないことが一杯あるんだって。それに、私の幼い頃に見ていたアリエルと、彼女は同じだったよ。好奇心旺盛で、チャーミングで、心の通った素敵な彼女そのものだった」そう言いながら、また涙を流していました。

賛否の中で

とても賛否両論が分かれた作品だと思います。

今回私たちは字幕で見たのですが、英語もイギリス英語であり、王族の方と街で暮らす人たちでは英語の発音が違ったそうです。また、カリブ海の楽器であるスティールパンを使用してあったり、舞台もカリブ海がテーマになっているように感じました。

確かに原作とは違う形で描かれている部分があったり、聞き馴染みのある歌から初めての歌、そしてラップなども取り入れられていました。

今まで数々のディズニープリンセスの映画では、原作を忠実に再現しているところがほとんどではあるけれど、少し違う歌やダンスシーンが追加されていたり、新たなエピソードが加えられているものもありました。

リトル・マーメードもエピソードや姉妹たちの役柄も少しだけ変わっている場面や、歌やダンスシーンも原作とは異なる場面も確かにありました。

沢山の意見があるのは、もちろん承知の上ではあります。

けれども、やっぱり観た人がどう感じるかであって、批判的に観る人がいることも事実だし、私のように感動し、昔と変わらないアリエルを観ることができたと思っている人もいる。

1番悲しいことは、それぞれに想いがあり、意見があるけれど、リトル・マーメードという作品を根本では愛していることに変わりはない。そんな人たちが、意見が異なることからと言って争ったり否定をし合うだけは、間違っていると思うのです。

最後に

どんな映画にだって好き嫌いはあるし、どれだけヒット作品だといわれたものでも、全ての人がヒットだと思っているかといえば、そういうワケじゃない。

1番大切なことは、自分がどう感じたのかではないでしょうか。

多様性になり、少しずつ差別というものを無くそうとする動きが増えてきています。

けれども、今回のように原作のイメージを変えてまでポリコレと言われる(差別や偏見をなくす政策)を行うことで、争う必要のなかったことで争いが生まれたり、批判的な考えや、意図しなかったところで逆に差別を助長させてしまった部分もあるかもしれません。

けれども原作でも実写でも、人間と人魚、種族を超えて手を取り合うことの大切さを、再認識しました。

見た目や宗教、そして人種。あらゆる面で今でも差別というものは存在します。それがなくなることは、おそらくとても難しいことでしょう。

ただ私は、ディズニー作品を数々見て多くのことを学びました。

信じれば夢は必ず叶うこと。

真実の愛は存在すること。

そして思いやりの心を持ち、誰もが自由に愛を持って関わることの大切さを、学んできました。

私一人では、できることは限られてしまう。

けれども、このリトル・マーメードを観て、純粋だった頃の気持ちを思い出させてくれたことには変わりがないのです。

遠くのことを追い求めるのではなく今、目の前にいる人たちを、そして今、目の前にあることを大切にしようと。

そして、いつまでも優しさを持ち続け、自分の目で確かめたものを信じ、生きていこうと思うのです。

あらゆる人たちと手を繋ぎ、大地の感触を確かめて、通り抜けてゆく風を感じ、私は私の物語を作り続けていきたいと思います。

 

人生という名の冒険は、またこうして歩き始めたのだから・・・。

 

ナイーブな私に勇気をください

  1. モト より:

    何かに感動して涙が出ることは素晴らしいことだと思います。
    自分がどう感じ、どう思うかが1番大切ですね。この情報過多の時代に何を選択して何を得るかを他人の情報だけに委ねるのは、考えることをやめてしまっているのと同じだと思います。
    だから僕は人の噂は8割流してます。先入観で物事をあまり見たくないからです。

    昔、僕はあることないこと言いふらされてかなりヤバいやつ認定を社内で受けていました。後から聞いた話しだったので、その当時は知りませんでしたが、、
    その噂をまに受けた会社や部下、後輩はさぞかし楽しんでいたでしょうね笑
    それから少し経ち、実際話すと違うといった声や、要らぬ噂を流した本人のボロが出だすと手のひら返したように態度が変わった人もいました。
    噂の全部が全部悪いとは言いきれませんが、自分の目で見て、肌で感じたものを信じるように生きていきたいですね。

    • オリエンタル納言 オリエンタル納言 より:

      いつも読んでくださり、本当にありがとうございます!
      大人になると涙もろくて泣いてしまうことも多いのですが、やっぱり何かを見て、感じて、感情を出すことの素晴らしさを痛感しています。
      現代では、情報が簡単に得られてしまうし、時には見なくてもいい、知らなくてもいいことまで知れてしまうのは、反対に恐ろしい世の中になってきました。
      特に世界情勢や政治に関しては、不安を煽るようなことも多く、私自身も振り回されてしまうことが本当によくあります。
      けれども1番大切なことは、自分の目で確かめて、感じて、正しい情報を得ることだと思うんですよね。先入観で物事を決めつけてしまうことほど、恐ろしいことはないから・・・。
      今回は、映画というものを観て改めて世の中で起きていることや、報道されていること、そしてあらゆる人の意見に流されないようにしようと考えられた出来事でもありました。

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