さようなら、思い出のお家

オリエンタル納言日常日記

幼い頃から年に2回、必ず訪れていた場所がもうすぐなくなろうとしている。

玄関を入ると懐かしい香りと共に、祖母の声が聞こえて、畳の部屋を歩いていくと座椅子に座った祖父が待っていた。

それがワタシの大好きな珠洲の家でした。

けれども震災によってかつての家は、思い出もろとも崩れていくように少しずつ壊れてしまいました。

足の踏み場も無くなって、入るだけでも危険が伴うような場所へと姿を変えてしまったのです。

それでも珠洲に行くたびに思い出を忘れないために、家の香りを心に残しておくために、何度も足を運んでいました。

そんな家が、もうすぐ取り壊されてしまうのです。

思い出の物たちは

7月にも一度行ってはいたのですが、その時には梅雨の影響で屋根から雨漏りがしていて、床もひどく荒れてしまったために、家の中に入ることすら困難な状況でした。

しかし、その後でボランティアさんたちが部屋の中の片付けを手伝ってくれたこともあり、久しぶりに家の中に入ることができたのです。

しかし、そこにかつての面影はなく、まるで廃橋のような姿をした部屋とも呼べないような部屋が目の前に広がっていました。

誰もいないガランとした景色の中で、思い出の物たちがあちらこちらに転がっているような状況だったのです。

底が抜け、壁は落ち・・・

親戚中が集まって団欒を楽しんだ場所は残骸だけが残り、足の踏み場もないような状況でした。

昔ながらの古いお風呂がある廊下は壁が剥がれ落ち、今にも崩れてしまいそうでした。

2階に上がる階段は強度の問題で登ることができなかったのですが、登らなくてもすでに2階の床が抜けていたので、1階からでも2階の様子がすっかり見てしまうほどに家は壊れていたのです。

従姉妹と遊んだ部屋を下から覗いてみたけれど、あの時の思い出も、楽しかった記憶も一瞬にして奪い去られてしまった。

そう思うと、家を眺めているだけでも胸が締め付けられ、涙が込み上げて来ました。

残されたカレンダー

日付がチグハグなカレンダーが、床にそっと置かれているような形で残っていました。

祖母が捨て忘れたのか、何かの思い出として残し続けていたのかそれはわかりません。

それさえも今では、何かしらの意味を持ってここに存在しているような気がするです。

カレンダー自身に心があったとしたら、きっと変わり果てた家を見て同じように心を痛め、そして涙を流していたかもしれません。

いつも壁にかけられて部屋全体を見渡していたはずのカレンダーは、あってはならない場所で静かに存在していたのだから。

悲しき背景

思い出の家を隅々まで見た後、祖母と叔父が住む仮設住宅へと向かいました。

その最中に、ワタシにはどうしても寄ってほしいところがあったので、様子を見るついでにその場所へ向かうことにしました。

珠洲市はかなり田舎なので、大きなショッピングセンターはありませんが、唯一この町の中では大きいモールのような場所がありました。

小さい頃から行き慣れていた場所であり、すぐそばに海があって素敵な場所でした。祖父が生きていた頃はよく2人でタバコを吸いながらモールを背にして海を眺めていました。

震災直後、復興する気でいたその場所に泥棒がなん度も入ったそうです。初めこそ地域の人たちのためにと動こうとしていたそうですが、その地域の人でさえ食べ物を探して、使える商品を探して、店に盗みに入る人たちもいたそうです。

被害金額もきっと想像を絶する物だったと思いますが、信じていた人たちに裏切られたという気持ちこそ、何よりお店を閉める一番の原因になったとワタシの叔父さんが言っていました。

誰だって辛い状況だったし、何より毎日を生きることに必死だったと思います。けれども、それでもやっていいことといけないことがある。

その気持ちさえ、忘れてしまうようなことがあの震災直後にはあらゆるところで起こっていたそうです。

憤りを覚えて

つい最近もあらゆる場所で地震が起き、ニュースでは「そろそろ南海トラフがやってくる」とまるで不安を煽るように何度も何度も報道をされていました。

一時的にお店に水がなくなって、災害用品も品薄状態が続いていました。

中には「地震怖いしねぇ。とりあえず用意でもしとくかぁ」なんて声がワタシの地元でも聞こえてくることもありました。

どこか冗談じみた声と、「きっと大丈夫だろう」そう思う声、そして必要以上に地震の怖さを煽る声に少しだけ疑問を抱いてしまうことがありました。

備えあれば憂いなし。

もちろん備えておくことで、突然の事態に命を救われることは絶対にあると思います。地震が多いこの国では、その対策を取ることは生活をすることと同じだけ必要なことでもあると思うんです。

けれども、南海トラフという言葉に踊らされているようにも感じてしまうのです。不安を煽り、必要以上に商品を買い漁る人たちの姿に、ワタシはどうしても憤りを感じてしまうのです。

忘れられた町

奥能登は、日本で初めて震災で見捨てられた場所だと言われています。

東北大震災の時にはあらゆるメディアが報道をして、復興という言葉を掲げ続けていました。

けれども珠洲市を含めた奥能登は、少しの間だけ報道されたのみで後は勝手に復興しているだろうと思われているように何一つ現状を伝えられなくなりました。

今でも家が崩れて、避難所生活を余儀なくされている人たちが大勢いるのに。

住み慣れた家が目の前で崩れていくのを、ただ見ることしかできな人たちが大勢いるのに。

自分だけが助かり、大切な人を一度に失ってしまった人が大勢いるのに。

それでも忘れられてしまったのです。

私たちの大切な故郷は過疎化が進み、震災の影響で県外に避難した人もいるからという理由で、国から捨てられてしまったのかもしれません。

今できることを、ワタシができることも

自分自身が震災を経験したわけではありません。そして、ワタシが住んでいる地域は南海トラフの影響をもろに受けると言われている場所でもあります。

震災の悲惨さを経験してはいないけれど、あらゆる人と話、大切な家を失った1人でもあるからこそ、メディアが伝えてくれないのなら、勝手に忘れ去られてしまうのならば、これからもワタシなりのやり方で皆さんに伝えていきたいと思っています。

いまだに町は、震災直後と変わらない状態が続いています。

それでも奥能登の方たちは、みんな揃ってこう言うんです。

「負けるな能登!諦めるな能登!」と。

どうか被災していない方々にも忘れないでいてほしいのです。

あの場所は忘れられた場所でも、見捨てられた場所でもなく、今も懸命に毎日を生きようとしている人たちがいる場所だということを。

そして被災者の方々は、未来のために希望を捨てず生きていることも。

ナイーブな私に勇気をください

タイトルとURLをコピーしました