「気を遣ってくれて、ありがとう」そう言葉にしてもらうたびに、心の中では微かな違和感を感じていました。
何一つ悪気があって言っているわけではないけれど、少しだけ寂しさを覚えるようになっていきました。
そして夫にも、「いつも気を遣ってくれて、ありがとうね」と言われたので、ワタシは初めてこう答えたんです。
「気を遣ったわけじゃないよ。これはワタシなりの心遣いなんだ」と。
その言葉だけを聞いた時には、夫は不思議そうな顔をしながら「そっか、心遣いか」と、ワタシの言葉の意味を探そうとしていました。
「気を遣っていることは、必要以上に顔色をうかがって、相手に忖度をしながらすることだと思うんだ。でもね、大切な人に喜んでもらいたい、こうしてあげたいなって心から思えて自然に行動することは、気を遣うことじゃないんだよ」そう伝えた時、夫は驚いた顔をしながら「そうだったんだ。とても素敵な言葉だね」と言ってくれました。
けれどもその言葉を導き出すには、随分と時間と心を使ってきたんです。
自分の気持ちを隠して、相手のことだけを考えるように生きてきたワタシの生き方は、まさに気を遣う人生でした。
喜んでくれるなら
幼少期から相手が喜ぶことが一体なんなのかを、自然と身につけていました。
それは言葉を重ねた時の表情だったり、態度だったり、何を言えば機嫌が良くなって、何をすると不機嫌になるのかを肌で感じ過ぎていたからだと思います。
同級生の友人はいないけれど、それでも小さな社会の中で生活するには、ある程度の忖度も覚えなければいけません。
カーストというものがあるせいで、その人たちには言いたいことも言えないし、言ったら最後いじめの標的になってしまう。
きっと生きていくために身につけた技のように、顔色をうかがい、気を遣うことを覚えていきました。
気を遣えばつかうほど、相手はワタシに危害を加えなくなり、時には優しくしてくれることもありました。
そうやって一つひとつ、試しながら気を遣うことが癖のようになってしまったのです。
忖度へと移り変わり
大人になれば社会に出て、色々な人たちと関わらなくてはいけなくなりました。
もちろん、ほとんどの人は優しい顔をして自分のことしか考えていない人ばかりでした。
そして当たり前のように空気を読んで、当たり前のように感情を読み取らなければいけませんでした。
朝から機嫌が悪い人がいれば気を遣い、思い通りに行かずにイライラしている人にも気を遣い、常に周りを見て、感情と表情を読み取って仕事をしなければいけませんでした。
心の底から「喜んでくれたら嬉しいな」なんて思うことはなく、「今日もどうか、怒られませんように」そんなくだらないことのために、自分自身の気持ちを犠牲にしながら忖度をし続けていました。
けれども結局は、全て無駄だったんです。
自分の機嫌を自分で取らない人たちは、全ての責任を相手に押し付けることで、優越感を感じ、自分の存在価値を確認する。その作業がしたくて、無意味に負の感情をむき出しにすることを、年齢を重ねるにつれて理解していきました。
そしてその行動に対して、誰かが「間違っている」と声を上げることは決してありません。
誰もが気を遣う場にいたら、考え方も思考回路も麻痺してしまっていたのです。
そうやってワタシは、いつまでも気を遣うことをし続けていました。
仕事を辞めて、得たものは
仕事を辞めてから、忖度をする相手もいなければ、気を遣う人間もいなくなりました。
今までは常に肩に力が入り、「何かしら行動しなくては」と身構えていたけれど、そんな敵も、もういません。
すると少しずつ穏やかになっていく心にも変化があり、今目の前にいる人の力になれることがあるかを探すようになっていきました。
とは言ってもお金もない、体力もない状態でできることは限られています。
だから目の前にいる人が喜ぶことを想像して、小さなことでもやってみようと考えるようになりました。
一番身近にいる人といえば、夫だったり、友人だったり、私たちの家族だったり。
そんな人たちの顔を浮かべながら、喜ぶ表情を思い描いて、自分にできることを少しずつやってみることにしました。
すると今まで感じていた気持ちとはまるで違う感情が、芽生え始めていきました。
「ありがとう」その言葉を聞けるだけで気持ちは軽やかになり、表情も穏やかになっていく。
他の人からしたら当たり前にできていることでも、ワタシにとってはかなり労力を要するものもありました。
それでも嬉しそうな顔をしてくれたら、心の底から涙が溢れてしまうくらい、ワタシ自身も幸せな気持ちに満ち溢れていくようになったのです。
その時に初めて思いました。
「そうか、今までは気を遣っていたけれど、これはきっと、気ではなく、心を遣っているんだな」と。
心遣いを日頃から
とても簡単なことでも、相手のことを思い、そして喜ぶ顔を浮かべるだけで気持ちは随分と変わります。
それでも長年染み付いてしまった気を遣う性格は、中々変わるものではなく、いまだに抜けないことの方が多いです。
それでも、たまにふとした瞬間に心遣いをすることで、大切な笑顔を見ることができることに、ようやく幸せを見出せるようになってきました。
単なる言葉かもしれないけれど、ワタシは随分とこの言葉に救われたような気がします。
これからの人生を、気を遣って過ごすのではなく、心を遣い過ごしていきたいから。
きっと皆さんならもう、すでに気づいているかもしれません。
気遣いではなく、心遣いの本質を。
そしてその効果を・・・。
大切な人の顔を浮かべながら、今日もワタシはほんの少しだけ心遣いをしていきます。
ナイーブな私に勇気をください
気遣いと心遣いを読んで
納言さん、こんにちは。
気を遣うと心に負が芽生え、しんどくなりますね。気を遣わず、一人でいるのは楽ですが、自由すぎてさみしくなったりもします。
何らかの形で人と関わりたくなり、気を遣う。困ったものです。
そんなことに力を注がないで、身近にいる人に心遣いします。
無償の愛を注げる人に心遣いをしょうと再確認させて頂けたエッセイでした。ありがとうございます。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
「気遣い」と「心遣い」なんとなくで使ってしまう言葉ではあるけれど、大切な人に使うのであればやっぱり私は「心」というもを遣っていきたいと思うんです。
その方がきっと、気持ちの距離も縮まっていくような気がするから。
まさに見返りを求めない「無性の愛」と言葉が一番しっくりきたような気がしました。