差別と区別

オリエンタル納言日常日記

これで最後のリクエストとなります。

リクエストをくれた皆様、本当にありがとうございました。気づかなかったことや、もう一度見つめ直すきっかけを与えていただけたような気がしました。

そして今回、このエッセイを最後に選んだのは、ワタシ自身が『差別と区別』を身近に感じ、味わってきた一人だったからです。

このエッセイが誰かの心に届きますように。

そして、少しでも寄り添えるようになることを願いながら書いていこうと思います。

それではスタートです。

小さな差別を味わって

小学生の頃、肌で差別を受けてきました。

アトピー星人だと言われて、触れてもらえなかった過去がありました。

物を落とせば避けら拾われることはありませんでした。

間違って手が触れてしまった時には、ハンカチで拭かれてしまったこともありました。

自ら望んでなったわけではないけれど、子ども世界は小さくて残酷でした。

ただ普通に人として接して欲しかっただけなのに、他の人と同じように扱って欲しかっただけなのに。

それがワタシの唯一の望みでしたが、その想いが叶えられることはありませんでした。

そして差別という言葉を知らなかったから、今されているものが何かを理解することも、とても苦労しました。

どうしようもない気持ちに蓋をして、学校に行かなけれなばならない。

それがとても苦しかったんです。

見た目で区別をされてゆく

成長するにつれて、アトピー星人と言われることは無くなりました。

けれども今度は、見た目で区別されていくことを少しずつ知っていきました。

綺麗な子や可愛い子は優遇され、ワタシのような取り柄もなければ美人でもなかった人間は、声をかけてもらうことも、困った時に手を差し伸べてもらえることもありませんでした。

いつしか学生の中で当たり前のように存在したカーストというものの中に入れられて、順位をつけられていく。

その順位は、顔がいい人たちによって決められていきました。

そしてカースト上位とそうでない人たちの扱いには、大きな差が生まれていったのです。

だから常に、ワタシは羨ましさと悔しさの両方を抱えて生きていました。

どうして見た目だけで判断されなければいけないのか。

どうしてもっと心の中を見ようとしてくれないのか。

そんなことを考えていても、誰かの思いを伝えることはしませんでした。

だって、カースト下位のやつの話なんて、誰も聞くことすらしないのだから。

いつしか歪んだ心は、少しずつワタその性格さえも曲げていくようになったんです。

常にないものねだりをしている醜さに、きっと当時のワタシも気づいていたでしょう

大人の世界へ

ずっと待ち焦がれていたんです。

大人になることを。

大人になれば、きっと差別をされることも区別をされることもなく、平和に自分というものを受け入れてもらえると思っていたから。

そしてワタシ自身も、差別とか区別とかで判断をするような大人にはならないと心の中で、強く、固く誓っていました。

しかし現実は、まるで違っていたんです。

大人の世界も言葉とやり方を変えているだけで、結局は同じことをしていました。

確かにカーストなんてものは存在していなかった。

けれども、年功序列という言葉があって、常に上にいる人に媚を売り、気に入られるように自分を犠牲にしながら忖度をすることを学びました。

どうしたら気に入られるか、どうしたら仲間から外されないかを常に考えていたと思います。

けれども自分と考え方が違っていたり、気に入らないと判断したら、『いらない人』として選別されてしまうんです。

そこからは、子どもの世界で味わった事がまた起きてしまう。

悪口を言い合って、誰かを蹴落として、そして優越感に浸る。

相手がどんな気持ちになっていようが、涙を流し耐えていようが関係ないんです。

だからワタシはここでも学びました。

子どもだろうが大人だろうが、社会というものには、必ず差別や区別があって、どこかで自分も犠牲になってしまうことがあるのだと・・・。

悩んだあの頃と・・・

子どもの頃から無意識の中で、差別を味絵あってきたワタシは、常に「差別とはなんだろう」「区別はなんだろと考える機会が多かったのかもしれません。

悲しい思いをした分だけ、頭の中で考えて、答えを見つけ出そうとしていました。

そしていつしか、差別も区別もないような環境で生きていきたいと心の底から願ってきたんです。

しかし、子どもだろうが大人だろうが、差別がなくなることはありませんでした。

区別が一体なんなのかを考える日々も、なくなりませんでした。

いまだにワタシは、差別と区別の狭間の中で生きているような気がします。

けれどもこれだけは言えるんです。

決して自分と違う見た目をしている人を、自分と違った考えを持った人を、小さな物差しで測り、分かったつもりでいてはいけないと思うんです。

正解と不正解という謎の二択があるから、差別と区別も生まれてしまったのかもしれない。

こうあるべきだ!

これは間違っている。

そんな勝手な物差しなんかでは買ってほしくないんと、当時のワタシは言えなかったんです。

ワタシが勝手に選んだ見た目ではないし、どうしようもないことで差別を受けることがとても苦しかった。

そしてどうしようもないからこそ、自分では改善する方法もわからずにもがき続けていたんです。

もし誰かが、あなたはあなたのままでいいんだよ」と言ってくれていたら、もっと視野は広がっていたかもしれません。

何かの型にはめようとせずに、自由に羽ばたける環境の中でいたら、もっと違う視点が見えてきたかもしれない。

そう今では、少しだけ思うようになれたんです。

差別を受けたからこそ

当時は本当に辛くて逃げ場のなかった環境だったけれど、今では考え方は少しずつ変わっていくようになりました。

もしも、肌によって差別を受けていなければ、ワタシはこの二つについて考えても考えても、ただただ困惑するだけで終わっていたと思うんです。

もしかすると、差別される側ではなく、差別をする側になっていたかもしれない。

あの経験が、ワタシをまた一つ成長させてくれたような気がします。

とは言っても、世界中ではいまだに差別は根強く残っており、悲しい事件や出来事がどこかしらで起こっているんです。

その度に、どうして小さな世界の中でしか物事を見られないのだろうと、とても悲しい気持ちになってしまうんです。

違いを分けることとして区別は使われているけれど、違いを分けることが少しずつエスカレートした先に、差別はやってくるような気がするから。

自分と他人を分けて考えて、そして違うところを認めずに区別をしていく。その中に批判的な言葉や想いが詰め込まれた時、初めて差別が生まれてしまうような気がするのです。

そしてワタシが今まで受けてきたものは、紛れもなく差別だったと思うんです。

同級生たちにはなかった掻きむしった跡や、傷口、そして変色している皮膚を見て、周りが区別をし始めたんです。

「あいつの肌は、他の人とは違う」そうやって。

そうしてマイナスなイメージがつけられて、避けられ、嫌われ、差別へと変化して行きました。

生きている中で、本当は区別をつけることなんて必要ないのかもしれない。

何かと比べて分けることも必要なかったのかもしれない。

そうすれば、差別なんて言葉も生まれなかったのかもしれない。

そう思ってしまうのです。

少しの思いやりを持ち寄って

生きていれば色々な言葉に触れて、時には言葉によって深い傷を負うこともあります。

だからこそ、使い方を間違えたり、考えずに発言をしてはいけないと思うのです。

何気ない言葉が、もしかすると誰かを傷つけてしまうかもしれない。

思いがけないところで、深い悲しみを生んでしまうこともあるかもしれない。

そして言葉は時として、争いさえも起こしてしまう時さえあるのだと思います。

しかし、いまだにワタシは区別と差別の本当の意味を理解できないままです。

ただ思うのです。

ほんの少しの優しさと心遣いがあればきっと、そんな表現も必要ないのかもしれないと。

一人ひとりが小さな優しさを持つことで、何かを区別したり、差別をして悲しい想いをする人も減ってくるのではないでしょうか。

ただこれだけは言わせてください。

人の数だけ考え方があって、思いがある。

時にはそれを正義として考えている人もいれば、悪として戦う人もいる。その中には、必ず心の中に揺るぎない思いがあることを。

しかし、その揺るぎない気持ちを絶対的なものにしないことが、いちばん大切なことなのではないでしょうか。

理解ではなく、知ってもらうことが何より大切だと思うから。

それが歩み寄るということなんだと思うのです。

差別を受けたからこそ言える言葉があります。

決して理解しようとしなくてもいい。ただ、知ろうとする気持ちを持つことが理解に繋がる第一歩であり、差別や区別といった言葉を使わずに人との関わりができる大切な思いだと思うから。

見た目が違うのは当たり前。

考え方が違うのも当たり前。

生まれた場所も育ってきた環境も違う中で、容姿も思考回路も同じ人なんていない。だからこそ、人は、それぞれの想いを言葉を通して知りながら、相手のことを理解しようとしていくのではないでしょうか。

差別と区別というテーマはとても難しく、この先も答えなんて見つからないと思うんです。

だからこそ、対話の中であらゆる可能性の中で『相手を思いやり、自分の心を受け止めていく』ことが何よりも大切だと、ワタシは思います。

それが今の私たちにできる一歩なのではないでしょうか。

 

 

ナイーブな私に勇気をください

  1. T K1979 より:

    差別と区別を読んで

     相手の立場になることは出来ないが、理解し近くことは出来る。
     今一回読み終えた所ですがもう数回読んでみます。
     そんなエッセイです。ありがとうございます。

    • オリエンタル納言 オリエンタル納言 より:

      読んでくださり、ありがとうございます。
      とても難しいテーマだったので、改めて自分の中でも考えながら一つひとつ見つめ直して書くことが出来ました。
      些細なことでも区別はあって、そこから大きく変化し差別へと変わっていく。それがどうしようもなく悲しくて、虚しい気持ちになることもあります。
      たった一人が考えることではなく、一人ひとりの頭の片隅でもいいから、区別と差別の境目を、そして差別のない社会にするにはどうしたらいいのかを考えていくことが、一番大切なのかなと思います。

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