ワタシは子どもながらにあることを思っていました。
「体の変化が怖い」と。
小学五年生の時の自然体験学習で初めてみんなでお風呂に入った時に、その感覚に襲われました。
大人びている同級生たちもいて、自分とは違った体の変化を目の当たりにした時に、「いつか自分もそうなるんだ。どうしよう。怖い」と感じてしまったのです。
けれどもそれが性に対しての考え方に直結するとはまだ思ってはおらず、恐怖の理由があまりわかっていませんでした。
二つの性に分けられて
中学生に上がった頃から、スカートを履くことに少しずつ抵抗を持ち、何かにつけて「男・女」と記入をしなければいけない用紙に嫌悪感を抱くようになりました。
ワタシなりのほんの少しの抵抗で、いつも「男・女」の「・」のとこに丸を打っていました。するとそれを不思議に思った当時の担任は、「どうしてそんなくだらないことをするの?」と必要以上に聞かれることもありました。
けれどもその言葉に、ワタシは必要以上に言葉を重ねることはしませんでした。
自分でも理由がわからなかったんです。どうして素直に「女」と書いてあるところに丸がつけられなかったのか。
ズボンに憧れて
高校生になると周りは少しずつ性別を意識するようになり、女性はより女性らしく、男性はより男性らしさが表れていたような気がしました。
学校に来ても化粧をする子もいれば、同級生の中でも垢抜けて綺麗になっている子を性の対象で見ている人も大勢いました。
その中でワタシは「ズボンを履きたい。スカートじゃなくて、ズボンで生活したい」と考えていました。
けれども昔は、ズボンを履いて学校に行くという選択肢はありませんでした。
だからこの頃からあえて髪を伸ばし、見た目だけでも女性らしさを追い求めるようになりました。けれどもその結果、名前も知らないような同級生たちがクラスに来て、「あいつ、サッカー選手に似てるよな」と変に注目されることもありました。
笑われていることを誰が見ても理解できる状況でも、周りが助けてくれることもなければ、自分から「やめてよ!」と立ち向かう勇気もありませんでした。
あまりにも言われすぎて惨めな気持ちに押しつぶされそうになったある日、ワタシは母にお金をもらって美容院に行き、髪の毛をバッサリ切りました。
すると今まで向けられた心無い言葉は、一瞬で言われなくなったのです。
拭いきれない気持ちは
大人になってからも、性別について考える場面が何度もありました。元々体型がわかるような服装はあまりしてこなかったので、彼氏ができてからもそのスタイルを変えるつもりはありませんでした。
けれども、付き合うたびに「もっと女性らしい格好をしたら?」とか「髪の毛をもばしてみたらどう?」と、見た目を変えることを勧められていました。
ありのままのワタシではなく、「女性らしいワタシ」を彼らは望んでいたんです。そしてその望み通りの服装や髪型にすると、彼らは決まって「そっちの方が前よりもずっといいよ」と褒めてくれました。
この時のことを振り返ると、自分の気持ちを押し殺して、別人になる努力をしていたような気がします。
そして交際期間が一年を迎える前に、彼らはワタシと正反対の女性らしく可愛らしい人の元へと旅立っていきました。
決まり文句はみんな一緒で、「性格はすごく素敵だと思う。けど、なんか女としてみられない」だとか「俺じゃなくて、もっと別に全てを受け入れてくれる人が現れるよ」と言って、去っていったのです。
どこにも属せない苦しみを
それから程なくして、一度だけ知人に相談したことがありました。「もしかすると、LGBTQ+なのかな」と。
すると「えっ?恋愛対象が異性なんだから違うんじゃない?」と言われてしまったのです。
どこにも属すことの出来ない苦しみは、想像以上に辛かった。
ワタシは一体、何で苦しんでいるんだろう。
周りがワタシに求めている姿は、一体どんなものなんだろう。
そんなことが、頭の中でグルグルと渦巻いていたような気がします。
そしてしばらくの間、どこにも属せない、何者なのかもわからない状態が続いていたのです。
勇気を出して
それから数年が経ったある日、ワタシは7年ぶりに会った友人にこのことを打ち明けました。
ワタシは一体何者で、どこにも属せない気持ちを抱えていたこと、そして実はLGBTQ +なのではないかということも。
すると友人は、さも当たり前のような顔をしながらこう言ったんです。
「そうだと思ったよ。でもとっくの前から気づいてると思ってた。確かに納言には性別を感じさせない雰囲気もあるし、出会った頃から『そうなのかな?』って思ってたよ。でも、それで何かが変わるわけじゃないし。むしろかっこいいアンタの方が、素敵だと思うよ。誰に何言われても貫けばいいじゃん。そっちの方が納言らしいし、私はそういうところも含めて、好きだよ」と。
その言葉を聞いて、ワタシは性別に縛られない生き方を選んだのです。
ワタシが誰かは、ワタシが決める
過去のワタシは、常に誰かの意見を気にしすぎていたのかもしれません。それは周りの意見でもあり、世間の意見も含めて気にしすぎていました。
けれども、ワタシのように付き合ってきたのは異性だけど、性に対して違和感を感じて生きている人もいるでしょう。
「異性とばかり付き合っているじゃない」と、どこにも属せないことに絶望を感じることもあったかもしれません。
LGBTQ +には、ある程度定義づけられたものがある。けれども心の違和感は、自分の中にある葛藤や苦しみは、定義で片付けられるほど単純ではないとワタシは思うんです。
多様性という言葉が多く言われている世の中だけれど、その多様性もまた誰かが作った言葉であり、そして言葉だけが一人歩きしている状態の方が多くあるような気がします。
一番大切なことは、自分がどうなりたくて、どう生きていきたいか。
定義の中で生きるのではなく、自分のなりたい姿になって、自分の心が願う通りに生きること。誰かのために生きるのではなく、自分自身のために生きているのだから。
だからこそ、ワタシは今では自分の言葉のように、迷った時には繰り返し言い続けています。
「ワタシが誰かは、ワタシが決める」と。
ナイーブな私に勇気をください
ワタシは一体、を読んで
私は、まず一通り読んでからダイバーシティ(多様性)を調べました。
『ひとりひとりの考え方に気づき、それをお互いに認め合う』
とのことでした。
なるほどと納得しましたが、ちょっと待てよ···よくよく考えて見ると他人さまの考えに気づく前に、自分自身の考えを整理し見据える必要があるのではないかと···。
納言さんの言葉
『ワタシが誰かはワタシが決める』
と言うことは、
『他人さまの考えに気づき、それを認める』
ことの裏返しのように感じました。
納言さんの言葉だけを読み取れば、自分自身のことだけと思われがちですが、実は他人さまも認めると言う素敵な言葉なのではないでしょうか。
私の休日の過ごし方より。笑
ありがとうございます。
追記 私は色々な『わたし』を認める変わりものです。説明はいらないですね。笑
TK 1979さんも書かれていましたが、「自分が誰かは自分で決める」その反対に「他人の考えを気づき、それを認める」これって簡単に見えてとても難しいことだと、常々生きていく中で思っていることの一つです。
この感想を読みながら、やっぱりTK 1979さんは自分のこと、そして相手のことを考えられる優しい方なんだなと改めて感じさせていただきました。
自分だけの気持ちを伝え過ぎてしまったら、それはただの独りよがりになってしまう。
どんな場面でも必ず相手がいて、他人がいて、そしてその人にも同じように心がある。どこかのエッセイでも書かせていただいたのですが、同じ地球上に住んでいる以上、一人で生きていくことは絶対に不可能なことなんです。
だからこそ、ほんの少しだけでも相手の気持ちに寄り添い、想像力を働かせながら思いやりの心を持って接することってすごく大切なんですよね。
「この言葉って、言ったら嫌な思いにさせちゃうかな?」とか「ワタシはいいけど、相手はどうなんだろう」そういった気持ちを持てる方は、やっぱり優しくて温かい人なんだと思います。
多様性という言葉が勝手に一人歩きしている今、一番大切なことはどんな姿だろうと、ハンデを持っていようとも、同じ人同士なのだから「互いに認め合い、そして寄り添い合う」ことが何よりも大切なことだとワタシは思います。
自分とは違う考え方の人を、「ワタシとは違う考えだから」と切り捨てるのではなく、「そういう考え方もあるんだなぁ」と知ろうとすることが今のワタシの課題でもあり、永遠のテーマでもあるなと、改めて感想を書きながら再確認させていただきました。
素敵な言葉を、本当にありがとうございました。