2023年7月12日(水)
夫と友人と私を含めた4人で、日帰り旅行のようなものに出かけていました。
道中大変なこともありながら、「あぁ、やっぱり人と会って、楽しい気持ちを共有することは幸せだな」と感じながら家に着いたのです。
暑さの中で沢山歩いたせいもあり、汗をかいた私たちは早々にお風呂に入りました。その日の出来事を振り返りながら、思い出に浸る。
その時間がとても幸せでした。
しかし、そんな幸せはあるニュースをきっかけにまた一つ、考えさせられる出来事へと変わってしまったのです。
若きタレントの訃報
お風呂を出てから携帯をいじっていると、LINEには衝撃的な連絡が入りました。
「ねえ、りゅうちぇるが亡くなったんだって」その文字を見た時、会ったこともなければ話したこともない人なのに、悲しみでも悔しさでもなく、虚無感だけが体全身を駆け巡っていました。
まだしばらくお風呂に浸かっていた夫に、訃報を告げると、口を開き言葉にならないような顔をしながら、一言だけ「なんでなんやろ・・・」そう呟いていました。
少し調べてみると、いろいろな憶測が書かれており、真相はいまだに誰にもわからないけれど、誰もが居ても立っても居られない、そんな感覚に襲われたのかもしれません。
つい最近まで、笑顔の姿を見ていたからなのか。
それとも、心の影をどこかで感じ取っていたのか。
どちらにしても、誰もが「どうして?」「なんでなの?」と疑問と虚無感の両方に挟まれたまま、悲しみに暮れることしか出来ない様子でした。
こうしてまた、若い命が絶たれてしまったのです。
葛藤の奥深く
このニュースを見た時、かつての自分と重なる部分がありました。
感情の糸が絡まり合い、やがて解けなくなるまでこんがらがってしまう。その辛さは、私にも経験がありました。
どれだけ「助けて」と叫びたくても、どれだけ「限界なんです」と言いたくても、まるで水中にいるかのように相手に声が届くことがなかった頃。いつしか、自分の存在が誰にも見えなくなってしまうのではないかという恐怖と常に闘っていたあの頃を。
自分自身の存在が分からなくなった時、ふと肩の力がふぅ〜と抜けた感覚に襲われ、「もう、どうでもいいや・・・」と人生に終わりを告げようとした頃のことを、今でも鮮明に覚えています。
一言声をかけてくれればと言われたこともあったけれど、その一言が余計にプレッシャーに感じることがある。そして、また喉の奥につっかえた言葉をゴクリと飲み込んで、何もなかったかのように振る舞う、そんな生活がありました。
彼女の中で何があったのか、そして、心の影はいつから姿を表し、どのようにして全身を覆い被さるようにしてしまったのか・・・。
それも、今では本人にしか分からないことなのです・・・。
ニュースを見るたびに
コロナ禍になってからというもの、私自身が人の生死に過敏に反応するようになっていきました。
本当だったら、楽しく思い出を作り過ごしていたのかもしれない。
誰かと笑い合ったり、時には感情に任せ涙を流していたのかもしれない。
そんなことを思うたびに、心がギューっと締め付けられるような感覚に襲われるのです。
自死を選ぶことは、決して褒められた選択ではありません。
けれども、全てを否定して「自ら命を断つことは、決してあってはならない」と言い切ってしまうことも、私は少し違うような気もしてしまうのです。
それは私自身も、同じように自死を選択しようとしていたからこそ、そのような考え方が生まれてしまうのかもしれません。
辛かったあの時、目の前が全て暗闇に包まれているように感じていた日々は、生き地獄そのものでした。相談すればするほど、自分自身の不甲斐なさに打ちひしがれて、目の前に起きる全てのことに絶望感を覚えました。
いっそのこと、全てを終わりにできたら、どれだけ楽なんだろうと本気で考えたことは、数えきれないほどありました。
けれども私は、生きる勇気も死ぬ勇気も中途半端に持ってしまっていたために、相談したところで、現状は変わらなかったのです。
一人で抱え込んでいれば、それはそれで、ただただ改善されない現状に疲弊しながら、追い詰められていくばかりでした。
何が正しくて、どうしたらいいのか分からなくなる、それが何より辛かったのでしょう。
命の限りの中で
命には限りがあります。
寿命を操作することも、何歳まで生きてどんな最期を迎えるかと決めたとしても、流れていく運命に逆らうことはできません。
唯一できるとしたら、自分自身で命を絶つ。つまり自死を選択することだけは、自分で決めることができる寿命の決め方なのかもしれません。
これはあくまでも私の個人的な意見ですが、自死を選ぶことは、決して間違った選択ではないような気がするのです。
残された家族や友人、そして関わりのある人たちが悲しい思いをすることは間違い無いでしょう。そしてきっと「どうして命を絶つようなことをしたんだ・・・。もっと早くに行ってくれたら」という後悔の念を抱かせてしまうことにもなるかもしれません。
しかし、どれだけ言葉を重ねられても、どうにもできない心の影があるのだとしたら。
頑張って頑張って、生きようと懸命に走り続けた結果、取り返しのつかないような感情が生まれてしまったら。
もしそうだとしたら、その人に向かって「生きて」とは言えないかもしれないと思ったのです。
そして私自身も、同じように仕事で辛く、生きる希望を失ったあの時、頑張って頑張って、頑張り続けた先に「生きて」と言われていたら、きっと今とは別の選択をしていたでしょう。
とても悲しいことだけれど、一度心に宿してしまった闇は、どんな言葉をかけられても、どれだけ応援されたとしても、立ち直れないところまで引きずり込もうとするのです。
寄り添うことで
しかし、今の私はこうして文章書き、かつてのうつ病や摂食障害、そして栄養失調などと向き合いながら、絡まった糸を解く作業をしています。
それは決して一人の力ではなく、色々な人があらゆる言葉で寄り添い、時には態度で示し続けてくれたおかげだと思っています。
あの時、誰一人として「頑張って」とは言いませんでした。
「生きて」という直接的な言葉をかけられたこともありません。
ただ黙って寄り添ってくれた人や、「もう十分だよ。よくやった。いっぱい泣きなよ」と感情を表に出すことを許してくれる言葉をかけてくれたことで、大きな影が少しずつ小さくなっていくことを感じることが出来たんだと思います。
もしも、彼女にもそんな人がそばにいて、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と、そっと手を握りながら涙を流すことを許してくれたら、1番悲しい選択をしない未来もあったかもしれません。
しかしそれも、当事者とその周りにいる人にしか分からないことなのです。
最近特に、誰かが命を絶ったというニュースや物騒な事件を目にするたびに、心の影が大きく支配している人が増えたような気がするんです。
どこか孤独で、誰かに「私を見て!」と助けを求めている、そんな人たちで溢れたようにも感じるのです。
昔のように、不便さを愛する生活よりも、便利をより便利なものへと追求することが当たり前となってきました。
会ったこともない人だったとしても、SNSで発信しているところを目の当たりにしている分、とても身近な存在に感じてしまう。昔よりも人との距離感のバグが出来ていく、そんなことが当たり前になってきました。
その便利さには、時に恐怖を感じることさえあるのです。
今をどう生きるのか
今回のニュースを知り、一人の若いタレントの死という言葉で片付けてはいけないような気がして、私は急遽エッセイを書くことに決めました。
どんなことでも、人の命が終わりを迎えることはとても悲しく虚しいことです。ましてや、それが自ら選んだ選択なのだとしたら、悲しみは計り知れません。
ただ一つだけ、もしも目の前にいる大切な人が、心の影に押しつぶされそうになり、感情の糸が絡まり合ってしまっているのなら、そっと抱きしめてあげてほしいのです。
言葉を多く交わすことよりも「大丈夫。あなたの気持ちは十分伝わっているよ。だから、気持ちを半分こにして」と、抱きしめながらそっと温もりを分けてあげてください。
そして出来るのならば、痛みをほんの少しでもいいから貰ってあげてほしいのです。
きっとその優しさは、相手にも伝わるはずだから。
全ての人に効果があるのかは分からないけれど、かつての私には、どんな薬よりも効果がありました。
痩せ細った体をそっと撫でながら、「大丈夫。あなたが頑張っていること、私はちゃんと分かっているから」と言ってくれた友人がいました。
一言も言葉を発しない私に、ギュッと抱きしめて「辛い気持ちは、二人で半分こにすればいいんだよ。だから、泣いていいんだよ。大丈夫。ずっとそばにいるからね」そう言って、いつまでもそばにい続けてくれたのが夫でした。
否定をせずに受け止めてくれたこと、心に負った傷を一緒に味わおうとしてくれたことは、この先も一生忘れることはないでしょう。
尊い命が絶たれてしまった今、私たちに何が出来るのか・・・。
全ての人の命を救うこと、そして見ず知らずの人の自死を止めることは不可能です。しかし、目の前にいる大切な人が同じような境遇になろうとした時には、悲しみが繰り返されないように、そっと寄り添ってほしいのです。
一度絶たれてしまった命は、どれだけ後悔しても戻ることはないのだから・・・。
ナイーブな私に勇気をください
本当に悲しい一報でしたね。
亡くなってからメディアが彼女の栄光をあげているのが、またそれはさらに悲しさをプラスするばかりです。
生きてるうちにもっと彼女の活動や人柄をメディアに映すことができただろうし、記事の書き方だってあんなに差別的で批判だったのに。とても必要で尊い命が一つなくなってしまった事がやるせないですね。
納言さんは周りにとても恵まれていたと思います。そして、辛い経験をし、たくさんの感情が、体に身についたのですね。
納言さんのエッセイを読むとすごく伝わります!
これからも、心のよりどころ、発信してって下さい。
いつも楽しみにしてます。
読んでくださりありがとうございます。
情報社会だからこそ、知らないことも知っているような気持ちになったりすることが多くなっているような気がします。どれだけその人自身が良い人だったとしても、歪んだ見方の方が圧倒的に一人歩きしてしまう。それが時に命を奪うことになってしまうことも、増えてきてしまったことに悲しさと虚無感を感じざるを得ません。
私自身も数十年の間、様々な問題を抱え、独りで考えることが多くありました。いつしか、自分でさえも自分のことを信じられなくなってしまったこともありました。しかし、ほんの一握りでも信じてそばにいてくれる人と出会った時、どれだけ辛い環境にいたとしても乗り越えられることも知りました。彼女の側にもきっと寄り添ってくれた人は少なからずいたのかもしれませんが、一度宿してしまった心の影の方が大きすぎたのかもしれません。
たった一人の力では、社会を変えることも命を助けることもできないかもしれません。けれどもこうして読んでもらい、それぞれが命について今ある現状について考えることで、変わるきっかけになるのなら書き続けようと思います。
読んでくださり、素敵な言葉を本当にありがとうございました。