心の中に言えない気持ちを

オリエンタル納言日常日記

「ねえ、見えた?今流れ星が通っていったよ」

「本当だ!人生で初めて見たよ。こんな間近で流れ星が見えるなんて」そんな会話をしたのが、去年の夏でした。

ワタシの第二の故郷であり、幼い頃から半年に一回は必ず帰っていた場所に、結婚してからは夫も一緒に帰省するようになりました。

祖父が亡くなってから寂しさに打ちひしがれていた祖母も、私たちが来ると、魚料理を振る舞ってくれて「ようきたね」と嬉しそうに笑っていました。

親戚も集まって食卓を囲み、たわいもない会話に花を咲かせる。そんな時間が当たり前で、毎年必ずくるものだと思っていたんです。

けれども、もう、その願いは叶いそうにもありません。

未曾有の大震災が、大切な場所を襲ったのだから。

呆然と立ち尽くす

2023年に別れを告げて、2024年に挨拶をした日。

いつもと変わらない光景ではあったけれど、この日は夫と友人と3人で初詣に出かけました。

その日の夕方から石川県の珠洲市に向かうはずだった私たちは、家でくつろいでいる間も帰省の準備に大忙しでした。

二日分の荷物をキャリーバッグに詰めて、「今年もばあちゃんの雑煮が食べられるね。楽しみだなぁ」なんて話していました。

早く会いたくて、祖母特製の雑煮の味を思い出して胸が膨らんでいく、そんな感覚を抱きながら準備にも気合が入っていく。

時刻は16時を回った頃、ようやくひと段落したところでコタツに入ろうとしました。

すると、3人の携帯から一斉に警報音が鳴り、かすかに床が揺れ始め、ミシミシっとそこらじゅうで鳴る音が聞こえた音です。その瞬間全身から鳥肌が立ち、「ちょっと待って、地震が来てる!!」とパニックになってしまいました。

私たちは一ヶ所に集まって、なるべく物が落ちてこない場所へと避難しました。急いでニュースを見てみると、そこには「能登半島沖で地震が発生しました」そう書かれていたのです。

血の気が引いていくように

いつもの地震とは、何かが違う。

そう思ったのも束の間で、ニュースキャスターが何度も何度も「津波が来ます!津波が来ます!」そう叫んでいました。

祖母の家は、海の目と鼻の先に建っていました。もしも津波が来たら、間違いなく流されてしまう場所にあったのです。

パニック状態になりながらも、先に帰省をしていた従姉妹にすぐに連絡をしました。

「ねえ、津波が来るって!とにかく高台に逃げて!返事は返さなくていいから!とにかく逃げて、逃げて!」そう何度も連投で送り続けました。

すると「もう、家がダメ。やばい」とだけ返信が来たのです。

どんどん血の気が引いていくのを感じながら、それでもLINEを送り続けました。

津波の様子がわからない。

倒壊していく家の様子はわかるけれど、その他の情報が何もない。

逃げている途中であろう家族たちは無事に避難できただろうか、被災地はどうなっているのだろうか、そう気持ちは焦るのにどうすることも出来ず、ただひたすら返事を待つことしかできませんでした。

見慣れた景色は

どれくらい時間が経ったでしょう。

あらゆるところで地震一色になった情報を頼りに、珠洲市のことを調べまくりました。一向に情報が得られないまま、従姉妹の返信を待ち続けました。

そして日は沈み、夜になった頃「みんな避難できたよ」と返事が来たのです。

「みんなは、無事に避難できた?」そう聞くと、「なんとか山に逃げられたから」と送られてきて、一気に腰が抜けていくような感覚に襲われました。

身体中で力が入っていたところがスゥーッと抜けていくように床にへたり込み、そしてもう一度ニュースに目を通しました。

映し出された光景は、今まで見てきたものとはまるで違っていたのです。

よく遊びに行っていた場所も、思い出がたくさん詰まった景色も崩れていました。

遠く離れた場所では、まさに無力という言葉しか思い浮かばず、どうすることもできませんでした。

その時のワタシにできることは、従姉妹が少しでも安心できるように、できる限り連絡を送ることしか方法が見つかりませんでした。

住み慣れた場所を離れて

震災から三日目が経った頃、父は1人で石川に向かい、祖母と従姉妹を連れて帰ってきました。

祖母はひたすら泣き続け、「じいちゃんも3年前におらんくなって、その次は家もなくなって」と言い続けていました。

従姉妹も被災の影響で疲れ切っている様子でした。

この時ほど、どう声をかけていいのか、何をすれば気持ちは救われるのかがわからなかった日はありません。

あの恐怖を体験した人と、していない人とでは、どれだけ気持ちに寄り添ったとしても、悲しみも絶望も計り知れないのだから。

それでもこっちにいる間、少しでも気がまぎれるようにと一緒に出かけたりしました。

被災地から離れ、ほんの束の間ではあるけれど、2人が笑顔を見せてくれたことがせめてもの救いでした。

思い出の家は・・・

幼い頃から何度も訪れた家は、この震災で崩れ、壁には赤い紙が貼られて入れないようになっていました。

今でも思い出すんです。

珠洲の家に行った時に香る独特の海風の匂いを。玄関に入った瞬間に「石川県にきたんだな」そう思えるあの瞬間を今でも忘れることができません。

けれども、もうあの家には立ち入ることができなくなってしまいました。

誰が悪いわけでもないのに、自然の力には到底敵うはずもないのに、やるせない気持ちでいっぱいになってしまうんです。

祖父母との思い出が、笑い声で溢れたあの場所に帰れなくなってしまったことが・・・。

いまだに忘れられなくて

ワタシはあれ以降、震災のニュースを無意識に避けてしまっています。被災したわけでもなければ、あの恐怖を体験した当事者でもありません。

もっと辛い環境下の中にいる人や、今でも避難所で限られた生活をされている方に比べたら、ワタシの気持ちは本当にちっぽけなものでしょう。

ただどうしてもあの日の様子がよぎってしまうんです。

生きた心地がしないような、地震とともに家も家族も全て失ってしまうような、そんな恐怖に包まれてしまう気がして。

この震災を経て、ワタシはあることを思い出しました。それは、去年の11月に家族で東北の震災復興跡地に訪れた時のことです。

津波の影響で多くの方が亡くなられ、土砂崩れや、家の倒壊で命を落とした方もいました。

その時に見たある言葉が、この震災と重なっています。

「ニュースやテレビではよく、『復興の兆しが見えてきた』とか『復興にどれくらいかかった』と言われることがあります。ですが、私たちにとってはまだまだ復興している気持ちには全くなれないんです。当時のことを思い出し、失われた思い出や大切な人のことを想うたびに悲しみに打ちひしがれています。世間では復興と言われていても、まだまだ気持ちが追いついていないんです。本当の『復興』とは、誰もが心の底から笑顔になれることだと思うんです。建物が立って、昔のように活気が戻ることではなく、人々の気持ちが前を向いて、残されたものたちが失われた人たちの分まで笑顔で過ごせるようになって初めて、『復興』と呼べるのです」

最後に

震災が発生してから、このことについてエッセイを書くことをずいぶんためらっていました。自分の中で思うように整理がつかず、そして文章に残す勇気が出なかったんです。

思い出の家は倒壊してしまい、今度はいつ珠洲に行けるかどうかもわからない状態です。

けれども文章に書くことで、少しずつワタシも現実を見ようとし始めているのかもしれません。

そして最後に、震災で亡くなられた方々にご冥福を祈り、そして被災された方々の気持ちが少しずつ前を向き、いつか笑顔で過ごせるようになる日が来ることを、心より願っております。

読んでくださり、本当にありがとうございました。

全ての人が同じように、笑い合える日を・・・。

ナイーブな私に勇気をください

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