珠洲日記

オリエンタル納言日常日記

2日間にわたる滞在期間の中で、あらゆる感情を感じました。

もちろん壊れていく建物や、少しずつ更地になっていく様子には悲しみが込みあがり、なんとも言えない気持ちになる場面もありました。

懐かしい景色が少しずつ変わりつつあること、行き慣れた思い出の場所がなくなっていくこと、その全てがとても悲しくて胸が苦しかったです。

それでも祖母を含めて現地の人たちは前を向こうとしていました。

明日を見ながら、かつての能登のように活気あふれる町に戻っていくことを強く望みながら生きている姿を目の当たりにしました。

前回は、震災の影響での悲しい部分にフォーカスを当てましたが、今回はまた違った形で文章を綴っていこうと思います。

 

裏の海で

祖母とおばさんと彼とワタシの4人で壊れた家を見にいった時、ワタシは家に入ってすぐに裏の海へと向かいました。

かつての景色を思い出せるように、海を眺めることにしました。

遠くの方で船の汽笛が鳴り、ちらほら見える船を眺めていたあの頃。

けれども今は漁船はおろか、遠くの方で聞こえてくる汽笛の音すらも聞こえてはきません。

その代わりにトンビの悲しげな鳴き声と、ビューッと体を突き抜けていく風の音だけがこだましていました。音に体を預け、持っていたタバコに火をつけました。

「じいちゃんが生きてるうちじゃなくてよかったよ・・・。こんな姿見たら、きっとじいちゃんは真っ先に海に出てたよね。家がなくなったところを見ていたら、じいちゃんは耐えられなかったと思う。みんな言ってたよ。じいちゃんが亡くなった後でよかったって・・・。地震が来た後だったら、こうやってタバコも一緒に吸えなかったよね」そう話しかけました。

答えてくれるはずもないけれど、なんとなく遠くの方から汽笛の音が聞こえてくるような気がしました。呆然と海を眺めている間にもタバコはいつもよりも早く短く、そして火ごと消えてしまったのです。

漁港に向かい

その後、おばさんは私たちを漁港に連れて行ってくれました。

かつて祖父の船が置いてあった場所も、道路が盛り上がっていたり、液状化現象によってマンホールが隆起していたり、車で通るのも大変な状態になっていました。

何隻かの船が見えたけれど、動いている船は一隻もありませんでした。

「ここは、じいちゃんの船があった場所だよ。小さい頃はよく船に乗せてもらったんだ。じいちゃんの自慢の船にね」そう彼に伝えると、海を眺めていた彼は「そうか・・・。思い出がたくさん詰まっているんだね。一度でいいから乗ってみたかったな」と言ったのです。

その言葉を聞いたあたりから、祖母は祖父とのあらゆる思い出を話し始めました。そのほとんどが喧嘩をした話でしたが、その時の顔はとても嬉しそうだったのです。

故郷に帰ってからは

祖母は被災してからすぐに、ワタシの住んでいる家に避難をしました。

1月3日に父が珠洲まで祖母と従姉妹を迎えに行き連れてきたのです。けれどもワタシの家族はみんな仕事をしていることもあり、日中は祖母と過ごしてあげることができないことから、今度は三重に住む叔母の家へと移りました。

家には誰かしらがいたそうですが、故郷の方言が通じる人は実の娘以外にはいません。もちろん珠洲の方言で話してくれる人もいませんでした。

寂しさと悲しさのあまり、元気だった祖母はどんどん痩せてしまい、電話を繋げるたびに「帰りたい、帰りたい」と言ってばかりでした。

そして今年の4月に故郷の珠洲市の仮設住宅に移り、生活をするようになりました。久しぶりに会った時には、痩せてしまった顔がふっくらとした顔に戻り、嬉しそうに近所の人たちと話をしていたのです。

自分の生まれ育った場所で、使い慣れた方言で話すことが何よりの生きがいになったのでしょう。

悲しみを乗り越えなくても

よく言葉では「悲しみを乗り越えて」というような表現がされることがあります。

けれどもワタシは、悲しみは悲しみのまま心の中に残り続けていいと思うんです。どれだけ前を向こうとしても現実が目の前にあって、その現実と共に生きていかなければならない事実がそこにはありました。

悲しみを乗り越えるのではなく、悲しみと折り合いをつけて、いかに自分らしく生きていくかが大切なような気がします。

同じ境遇の人たちと同じように悲しんだり、今の現状に愚痴をこぼすことで気持ちが晴れることもある。

悲しみは乗り越えるものではなく、いつか自然と「そろそろ前を向いて歩けるかもしれない」と思う瞬間がきっとやってくるような気がします。

恐怖を味わい、多くの悲しみを背負うことになってしまった能登の人たちは、一歩外に出ればあの時の光景がそのまま残されており、どんどん崩れていく様子をただ見つめることしかできません。

「悲しみを乗り越える」のではなく、「悲しみを受け入れ、そして誰かと分かち合う」ことが気持ちの整理にもつながるような気がするから。そして被災していない私たちでも、あの悲惨な状況や町並みを見れば、感情は揺れ動きあらゆる気持ちと向き合うことになる。

けれども当事者ではないから、全てを理解することはどうしても難しいのです。

そんな私たちにできることは、あの震災を忘れずにそれぞれのできることで被災された方たちに寄り添うことだと思います。

いつ自分が同じ立場になるかもしれない。

ある日突然住み慣れた家を失うかもしれない。

そしてその先には、家族をも失ってしまうこともあるかもしれない。

いつ自分が同じ立場になるかもしれないこの日本で、今こそ手を取り合い、寄り添い合い、そして支え合うことが「復興」に向けての1番の近道になると思います。

最後に

今回は、ワタシの第二の故郷で震災が起こりました。

悲惨な状況を目の当たりにして、悲しい現実を突きつけられた気分に何度も陥りました。けれども、たった一つだけ「あの時、こうしていてよかったね」と話したことがありました。

ワタシは結婚する前まで、本籍地が石川県珠洲市でした。

旧姓がとても珍しく、子どもの頃は苗字で馬鹿にされることもありましたが、ワタシ自身はその苗字に誇りを持っていました。

結婚する前には、夫婦別姓になるかどうかを話し合うほどずっと大切にしてきた苗字です。けれども、結局は彼の苗字に変えることを選び、その時に一つだけお願いをしました。

「苗字を変えることはいいんだけど、せめて本籍地をこのまま石川県にしておきたい」と。

その言葉を聞き、彼は「もちろんだよ。僕もその方がいいと思う。一緒に本籍地を石川県にしよう」と決めて、今では夫婦揃って本籍地は石川県珠洲市のままです。

家はなくなってしまったけれど、あの時の判断は間違っていなかったと改めて思いました。

そしてこの先どうなっていくのかは分かりませんが、この先も大きな変化がない限り本籍地はそのままにしておこうと思います。

あらゆる思い出が沢山詰まった大切な場所であることに、変わりはないのだから。

ナイーブな私に勇気をください

  1. ぴろし より:

    大変な中、ありがとうございます。

    • ぴろしさん!いつも読んでくださり、ありがとうございます。
      まだまだ「復興」とは程遠く、難しい部分もありますが、こうして引き続き現状をワタシなりに伝えていけたらと思います。

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