今年一年を振り返ると、本当に色々なことがありすぎて長く感じた年でした。
気持ち的には「ようやく今年が終わる・・・」そんな思いでいっぱいです。笑
そしてワタシにとっても、家族にとっても、泣いたり、胸を痛めたり、心のささくれがめくれて血が滲んでしまうような出来事が多かったような気がします。
けれども、結果的に全員無事に一年を終えることができ、そしてなんとかみんな揃って来年を迎えられることに今は心から安堵しています。
ということで、今年は疫病神でもついていたのかな?と思うほどの激動の一年を、ブログで振り返っていきたいと思います。
最後までお付き合いください!!!
元旦の悲劇
父の誕生日をみんなで祝うはずの1月1日に未曾有の大地震が起こり、父の実家は自然の脅威によって壊れてしまいました。
何度も訪れた場所は見たこともない景色に変わり、慣れ親しんだ家は、足の踏み場もないほど変わり果てた姿になってしまいました。
亡くなった祖父との思い出のスーパーは、この地震によって店を閉め、珠洲に帰れば必ず食べていたパン屋さんも廃業となり、そして祖母と叔父は仮設住宅で暮らすことになりました。
そこから何度も石川県に父と一緒に帰って、仮設住宅に泊まり、私たちにできることを一生懸命やり続けました。
無力ながらになんとか力になりたくて、もう一つの故郷に恩返しがしたくて、この一年、珠洲のことを忘れた日は一日もありませんでした。
おじいちゃん、肺がんになる
能登の地震が起きてから数ヶ月後、今度は母のお父さん、ワタシのもう一人の祖父が肺がんになりました。
昔から自由で、のんびり屋さんで、おおらかな性格の祖父とは、大人になってからたまに二人で出かけたり、時には恋バナをしたりすることもあるほど仲が良かったです。
そんな祖父が肺がんと診断されて、母は憔悴し、毎日のように泣いていました。
けれども、なんとなく別れの感覚が働かなかったので、「きっとじいちゃんは大丈夫だよ」と伝えた後、祖父の手術は成功し、今ではがんの転移もなく、少しずつ体力を戻すための生活をゆっくりと送っています。
たまに顔を出しに行って、一緒に出かけたり、珍しくワタシが料理を作ってあげたりしながら一緒にいられる時間を思い出に変えられるようにしています。
納言、仕事を辞める
去年まで体の調子があまり良くなく、毎日暗くどんよりとした日々を過ごしていました。けれどもある日から、少しずつ「仕事をしてみたい」と思えるようになり、そして4月から晴れて小規模園の保育士として働くようになりました。
けれども現場は劣悪で、園長先生の機嫌によって周りに当たり散らしたり、人によって態度を変えたり、子どもに対してもひいきをしたりする姿を見るたびに、「こんな嫌な思いをするために保育の現場に戻ったわけじゃない」そう思うようになりました。
パートではあったけれど、ワタシには子どもたちに対しての強い信念のようなものがあって、そしてどの子も平等に、そして可能性を大人が潰さないように、あらゆることを考えながら関わっていました。
けれども、保育とも言えない環境の中で、子どもたちの心も育たないやり方に、とうとう心が追いつかなくなってしまい、結局は辞めることを選びました。
ただ、あの園に行ったことで、また新たに出会った人と仲良くなり、今でも「納言ちゃん!元気?」と言って連絡をくれたり、一緒にご飯に行ったりなどの交流があります。
あの園のことは好きにはなれないけれど、それでも新たな出会いに感謝することもありました。
パパ、胆管結石になる
もう次から次へと、大変なことはやってきます。
春頃、ワタシは変な胸騒ぎを覚え、ましゅぴに「多分だけど命に別状はないと思うけど、パパ近いうちに病気になると思うよ。だから、病院に一度行った方がいいかもね」と何度か伝えたことがありました。
その予想は当たり、いつもなら起きて電気がついている時間帯に電気がつかず、心配した近所の人が様子を見に行ったところ、真っ黄色の顔をしながら倒れている所を発見してくれたのです。
朝イチで彼のところに電話があり、すぐに三重にある病院へと向かいました。
結果は「胆管結石」で、すぐさま入院となり、翌日には手術をしました。そこから何度も三重に様子を見にいきました。
パパとは義父というよりも友だちみたいな関係であり、本当に良くしてくれていたので、時間を割いて何度も会いに行きました。お風呂に入れない時には、水のいらないシャンプーを使って頭を洗ってあげたり、院内をぐるぐる歩いたりしながら時間の許す限り一緒に過ごしました。
ワタシが帰ろうとすると「もう帰るのかぁ」と寂しそうに言うので、「明日また来るよ」と義実家に泊まり、そしてパパに会う頻度をなるべく増やしていました。
手術も成功して、完全ではないですがパパもすっかり元気になり、たまに電話をかけて近況を報告し合っています。
母、骨折の手前になる
母も母で、実の父が病気になり、旦那の実家は震災で壊れるなど、次から次へと悩み事が増え、特に祖父の病院の付き添いや検査などに同行する機会が圧倒的に増え、家から約1時間かかる道のりを約半年以上もの間、週に何回も通い続けています。
そんなある日、急に歩き方が変になって「足が痛いんだよね」と階段を降りるのも辛そうにしていることが増えていきました。
そしてつい最近、ようやく病院に行くと「骨折の一歩手前だよ」と言われ、大好きだったマラソンもできるような状態ではないと伝えられました。
走ることが生きがいになっていた母は、走ることができなくなり、これから週に3回のリハビリを受けながら、足と膝の治療に専念するようになったのです。
ただ走っている人を見かけると「いいなぁ。お母さんも走りたいな」という姿を見て、なんだか胸がキュッとなりながらも、ワタシもできる限りのことをしたいと思うばかりです。
納言、痛みのスペシャリストに会う
新しい園で働くようになった頃から、あらゆるストレスによって少しずつ良くなった心の病がぶり返し、毎日のように頭痛薬を10錠以上も飲む日々が約半年間続きました。
仕事に向かう途中で急激に頭痛と動悸がし始めて、園に入った瞬間に頭の中で太鼓を叩かれているようにドンドコと脈を打ち始め、息が浅くなり、仕事中に何度も薬を飲んでいました。
せっかく戻った体重もどんどん減っていき、次第に気持ちは下がり、心も擦り切れていきました。
そんな時期に、ある心療内科で痛みに強い先生を母が見つけてくれたことをきっかけに、頭痛外来ではなく、心療内科で頭痛とうまく向き合っていけるような治療を今でも続けています。
たまに心が苦しくなってしまう時、何もやる気が起きない時、周りと比べて自分を惨めに思ってしまう時もありますが、それでも少しずつ自分のペースで毎日6割くらいの力で生きるようにしています。
待っていろよ・・・前厄
そんなこんなで今年は本当に色々なことがあって、正直嬉しいことよりも辛いことの方がはるかに多い年となりました。これまでもしんどいことばかりだったので、「さらに地獄みたいな状況が続くのかよッ!!」と一人でブチギレたこともありました。笑
ただ、これまでのことを振り返ると「大きな不幸だと思っていたもの全てが、最悪の事態をなんとか避けられている状態なのかもしれない」と思えることばかりでした。
これだけ多くのことが起きても、地震に巻き込まれて命を奪われてしまうことも、病気でこの世を去ってしまうことなく、家族全員がなんとか元気に生活をすることができています。
それはきっと、最大の不幸をそれよりも小さな不幸でなんとか回避できているのかもしれません。
そしてワタシは来年、前厄というなんとも厄介な年がやってきます。
今年は殿とお祓いに行きましたが、お祓い代を一番安い金額にケチったせいで、大変なことばかりが起きたかもしれないので、今度殿とお祓いに行く時には、ケチらずちゃんとやろうと決めています。笑
最後に
今年も納言ましゅぴ夫婦を応援してくださり、あらゆる形で関わってくださり本当にありがとうございました。
SNSを通じて多くの方と出会えたこと、時には勇気をもらい、時には優しさを分けていただけたことは感謝してもしきれません。
2024年は、皆さんの温かさに本当に救われた一年でした。
2025年は、応援してくださった方々に、ずっとオリナゴと仲良くしてくださる皆さんにも恩返しができる一年になれたらいいなと思います。
ましゅぴは架空昭和史作家として、納言はエッセイストとして、これからさらに表現の幅を広げて活動をしていきたいと思います。
2025年もどうぞ、よろしくお願いしますッ!!!
ナイーブな私に勇気をください