あなたへのギフトを

保育士時代の体験談・過去のトラウマ

「人はそれぞれ神様から生まれた時に贈り物をされるんだ。それが個性となって才能となる。だからね、人と違うことを誇りに思っていいんだよ。それは神様から与えられた大切な『ギフト』なんだから」

この言葉は、ある時ましゅぴがワタシに言ってくれた言葉であり、今も大切にしているものです。

うつ病で悩み、普通のことができなくなってしまった時、とても悲観的になり、随分と自分自身を傷つけてしまいました。

どうして他の人が出来ている事ができないんだろう。

どうしてワタシは仕事もせずに一日中、部屋に閉じこもっているのだろう。

罪悪感と後悔の波が押し寄せてきて、何度も何度も自分を責め続けていました。

もしかすると、ワタシはおかしいのかもしれない。

もしかすると、普通という言葉がとても重荷になっているのかもしれない。

そんなことを思うようになってしまったのです。

そんな時に彼がそっと手を持ちながら言ってくれたのが、この言葉でした。

あの時、胸につっかえていたものがストンと落ちていく感覚を確かに感じたのです。

普通という枠の中で

保育士をしている時、いわゆる発達障害と診断されたお子さんを受け持つことが何度かありました。

当たり前のように使われている『普通』という言葉が、彼らにとっては時に難しく、そして大きな壁のように立ちはだかることがあります。

好きなことへの情熱と、そうでないものへの気持ちの落差に困惑する場面もありました。

保育士をしていると、発達障害児のお子さんへの支援だったり援助だったりをすることがあります。

それぞれの特性と呼ばれるものを理解し、そして少しでも過ごしやすい環境の中で生活ができるように配慮をすることです。

保育士不足の中で支援を充実させてあげられるか、それはとても難しい問題でした。保育士の免許は持っているけれど、支援や心理について特化している免許は持ち合わせていません。

ただあるのは経験と日々の生活、そして信頼関係だけです。

専門的な援助ができるかと言えば、その分野では私たちは素人と同じなのです。

普通とは何か、それを求めてどうなるのかを葛藤することもありました。

だからこそ発達障害の子だからという観点ではなく、別の視点で彼らと関わろうと思うようになっていったのです。

難しさに直面しながら

とは言っても決して簡単なことではありません。

意思疎通が難しい子もいれば、こだわりが強く中々集団生活の中に入れない子もいる。クラス全体を見ながらの関わりは、思うようにいくことの方が難しかったです。

だから考え方をガラッと変えてみたんです。

こだわる何かがあるのなら、そのこだわりを強みに変えられる方法はないのか。

そしてクラスで過ごすのであれば、クラスみんなで支え合える方法はないのか。

そう考えるようにしたんです。

まだ幼い子どもたちにどれだけ伝わるか、正直難しいところもありました。もちろん保護者の方と連携をとりながら、少しでも楽しさを味わってもらえるように一緒に考えながら模索をしました。

行事などで学年単位で動く時には、どうしようもないことだってあります。

けれどせめてクラスの中だけは、どんな子も変わらず自由に、好きなことをとことんできる環境にすることを意識ました。

そして得意なことを見つけた時には、クラス全員で喜びを分かち合い、意欲に繋げていくようにしたんです。

何より一番大切にしたのは、なるべく多くの成功体験を味わってもらうことでした。

どんな些細なことでも感謝をして、出来た時には一緒になって喜びを分かち合う。

時間を忘れて没頭できることは才能だし、好きなことを追求することもまた一つの才能なんだと言い続けました。

それはきっと、ワタシ自身が成功体験が少ないまま大人になってしまったからなんです。

自信がないまま大人になってしまったら、どんなことをするのにも不安になったり、臆病になったりすることもある。

だからこそ子どもたちには「自分たちはどんな姿にでもなれるんだ!好きなことをとことん楽しもうとすること自体が才能なんだ」と知って欲しかった。

絵が好きな子がいれば、渾身の絵を額縁に入れて目に見える場所に飾りました。

歌うことが好きだったり、楽器演奏が好きな子がいたら、色々なクラスの人たちを呼んで、みんなで作った手作りのチケットを配って演奏会を開きました。

どんな些細な才能も落とさないように、拾い上げられるように。

自分たちはどんなこともやり続ければできるんだってことを証明したくて。

全てのことに可能性と才能があることを知って欲しくて。

だからそのためなら、自分の時間なんて惜しみませんでした。子どもたちの成功体験が、ワタシ自身の成功体験にも繋がっていくことを実感していたからです。

そうしてクラスは少しずつ、自信を持てる子が増えていきました。

お互いに知ることで

ワタシは子どもたちに自分の苦手なことをよく話していました。

苦手な野菜だったり、運動が得意ではなかったり、寒い時には外に行きたくないことも話していました。

大人が弱点を見せることで、子どもたちも弱さを出していいんだと思えるようにしたかったんです。

そしてただ弱さを見せるだけではなく、その弱さの中でみんなの力が必要なんだということを伝え続けていました。

苦手な野菜が出れば、子どもたちは「なごんせんせいのきらいなタマネギがあるけどたべられる?」と教えてくれました。なので「応援してくれたら頑張れるかも」と言って、他にも好き嫌いのある子と一緒に応援してもらいながら食べようとする姿を見てもらっていました。

大人だって嫌なこともあるし、苦手なものだってある。けれども支えがあることで頑張る力が湧いてくることを伝えたかったんです。

そしてそれは何も、食事の時だけではなく生活の時も同じでした。

発達障害を持っているお子さんには、それぞれ難しいことや上手くいかないことが他の子よりも頻繁に起こることがあります。

集団生活に遅れてしまうこともあれば、時には他のことに夢中になって切り替えができない場面もある。

そんな時は、焦らずに一緒に寄り添ってあげることが大切なんだと伝えました。

それはもちろん保護者の方と相談をしながら、子どもたちにどこまで伝えていいのかを話し合った中で、一つの援助として子どもたちにも協力をしてもらうことを話してからですが。

どんなことが苦手で、どんなことに困っているのか、そして困っていることを言葉で伝えるのが難しいことがあるから、そんな時は「どうしたの?」と声をかけてあげてほしいと話をしたんです。

どんな些細なことでもいいから、もしも困っている姿があったら、優しく寄り添うことが大切なんだと。

大人が援助することは、子どもたちが声をかけたり助けようとすることよりもずっと簡単です。

でも一年の間、一番近くで生活を共にするのはあくまで子どもたちだから、なるべく子どもたちから声をかけてくれたら、クラスの中にも馴染める機会を作ることができると思いました。

ただ初めから出来る訳ではなく、最初の頃は間に入りながら声をかけて、時には他の子たちを呼んで、少しずつ寄り添うことの大切さを知らせていきました。

変わっていく姿

子どもたちは大人の姿をよく見ています。

面白いことに、一年も一緒に過ごしていくと言葉遣いだったり考え方がワタシに似てくるんです。笑

だからよく「家でも納言先生の真似をしているんですよ」なんて言われることもありました。

子どもたちにとって大人は、1番の見本であり、とても大切な教科書みたいな存在になったりもします。

だからこそ、子どもたちに寄り添うことの大切さを知らせるためには、ワタシ自身が一番寄り添うことを意識しなくてはいけません。

そうやって少しずつ子どもたちの心の中にも変化が起き、自然と相手を思いやる気持ちや、支え合う大切さを知っていくんだと思います。

自分で言うのもなんですが、今まで見てきた子たち全員、本当に心の温かい子ばかりでした。

困っている子がいれば、ワタシよりも先に手を差し伸べてくれて寄り添おうとしてくれました。

決して無理強いはせずに、「大丈夫だよ。無理しなくて」なんて声をかけてくれていました。

嬉しいことは一緒に喜びを分かち合い、悲しい時には一緒に悲しむことができる、とても優しい心を持った子たちでした。

そうやって過ごしてきたからこそ、たとえ障害を持った子だったとしてもクラスに溶け込み、それぞれの個性や才能を認め合うことが出来ていたんだと思います。

あなたにしかない贈り物を

発達障害の子を何度か見てきましたが、特性やこだわりが時として強く出ることもあるけれど、彼らにしかない才能が沢山あります。

ただ当事者ではないワタシが、全てを語ることもできなければ、当事者の気持ちを代弁することもできません。

大人になって発達障害だと診断された人の中には、幼少期からの生きづらさの中で、診断をもらい葛藤する人もいれば、安堵した人もいると聞いたことがありました。

障害に関係なく、誰しもに少なからず生きづらさを感じる場面はある。そして苦手なこともあれば、嫌で逃げ出したいと思うことだってあるでしょう。

ただ発達障害は目には見えないものだからこそ、心と体の間で苦労を感じている人もいると思います。

でも、その人たちにも個性という名の才能があって、多くの可能性があることを保育士をしながら目の当たりにしてきました。

ワタシはどんな人にも才能の芽が宿っていると思います。

それがきっと神様から与えられたギフトでもあるのだと。

今も生きづらさを感じている人がいるのなら、ワタシが言葉で伝えさせてほしいんです。

他人と比べる必要もなければ、人と同じようにする必要もないんだってことを。そして、あなたが感じている生きづらさはきっと、目には見えない才能の種だということも。

社会の中で生きていくためには、綺麗事では済まされないこともあると思います。

ルールがあって、普通を求められて、空気という目には見えない心の中を超能力を使っているみたいに読まなければいけない。

だからといって出来ない自分を責めたり、辛い思いをしてまで合わせる必要なんてないと思うんです。

ただもしも今、生きづらさを感じているのなら、自分の生きづらさの原因を知る機会があってもいいのではないかと思うんです。

自分自身を知ることが、生きづらさを知るきっかけとなることがあるから。

そしてもしも知ることが出来た時は決して悲観せずに、信頼できる人に相談してほしいと思います。

人は、一人では生きてはいけません。

誰かの助けや支えによって、一筋の光が差し込むように霧が晴れて、道は見えてくるはずだから。

そしてこれだけは忘れないでください。

全ての人には、目には見えない無数の才能があるということを。

だからこそ、好きなことがあるのならとことん突き進んでください。

そしてそんな自分に誇りを持ってほしいと思います。

あなたが与えられたギフトは、どんなものですか?

そしてそのギフトを大切に出来ていますか?

あなたの才能という名のギフトに、誇りを持ち続けてほしいと心から願っています。

あなたは、何にでもなれるんだという言葉と共に・・・。

ナイーブな私に勇気をください

  1. かくた より:

    コメント失礼します、現役宇宙人サイドとしては居ても立っても居られない気持ちで書き込んでます。
    発達障害の子どもたちは孤立しやすいので、ルールの中での競争が求められる社会にいきなり馴染むことができないのはままあります。
    なので納言さんが例示したような、みんなで一緒に一つのミッションをこなす、という成功体験は正しく僕が少年時代に本当は欲しかったものです
    自分のことでいっぱいいっぱいの今の時代、いかに理想とみんなの理解をすり合わせていくかは、僕自身も課題としていることでもありますので、非常に興味深く読ませていただきました。

    • オリエンタル納言 オリエンタル納言 より:

      かくたさん、読んでくださり本当にありがとうございます。
      このエッセイを書くのは、正直すごく迷っていたんです。少し前に一度書こうとしたのですが言葉でうまく伝えられず、一度諦めたことがありました。
      しかし、ワタシの周りにも発達障害と診断された中で、夢を見つけたり、好きなことに向かって突き進んでいる人がいます。
      教え子の中にも多くのことにチャレンジしながら、新たな可能性を伸ばし続けている子もいます。
      障害と診断されたわけではないけれど、ワタシのように心を壊したり、何かの事情で生きづらさを抱えながら生きている人が大勢いると思うんです。
      そんな人たちが、出来ないところや、マイナスな部分に目を向けるのではなく、「自分には、目には見えない可能性の種があるんだ。才能は誰にでもあって、その花を咲かせるために今は経験を積んでいる途中なんだ」と伝えたかったんです。
      才能がない人はいません。
      そして、誰だって得意不得意はある。どれだけ頭のいい人でも、容姿が良かったとしても、欠点は必ずある。その中で、お互いに手を取り合いながら、助け合える社会になれば、一番嬉しいことですよね。
      どんな人も欠けてはならない大切な存在だからこそ。

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