頑張りすぎないで

保育士時代の体験談・過去のトラウマ

このエッセイを書こうとした時、ある言葉が脳内でリピートされていました。

「頑張りすぎないで」たったこの一文を、ひたすら頭の中で思い浮かべていたんです。

言ってくれた人たちはきっとワタシのことを想い、そして寄り添ってくれたからこその言葉だったと思います。

ただ言われている時には、「どうして、こんなに頑張りすぎないでと言われてしまうんだろう。ワタシは何か空周りをしてしまうほど、頑張っているのだろうか」という疑問が浮かんでいたような気がします。

真面目すぎるが故に

ワタシは元々、超がつくほどの真面目なタイプだということを社会人になってから知りました。

その大きな理由の一つは、怒られることへの恐怖心からだったと思います。

失敗することを極端に恐れて、叱られている先輩の姿を見て、(絶対に失敗しないように、間違わないようにしないと)そうやって、何度も頭の中に刷り込んでいく形で言い聞かせていきました。

何かあればすぐにメモを取って、間違った行動をしていた人の姿を研究して、失敗を繰り返さないように何度も頭の中でシミュレーションをすることも欠かしませんでした。

だから常に緊張のせいで肩に力が入り、そして何をするにも自信がありませんでした。

誰かの言葉に恐怖を感じて

常に緊張感を持ちながら仕事をしていたもんだから、自分ではない誰かが叱責をされている場面を目撃してしまうと、まるで自分にも言われているように心臓がバクバクと音を立てて、そして体が硬直していく感覚に襲われていました。

その姿を見て、またこうやって心に言い聞かせるんです。

(同じことを繰り返してはいけない。絶対に失敗もしてはいけない。覚えなきゃ、怒らせないようにしなきゃ)そうやってさらに自分自身を追い詰めていたような気がします。

特殊な環境にいたからこそ、余計にその気持ちがどんどん大きくなっていったのかもしれません。

誰よりも努力をしなければいけない、自分の時間を割いてでも仕事をしなければいけない、そんな固定概念が生まれてしまうほど、ワタシはワタシに試練を与え続けていました。

新しい職場でも

幼稚園を辞めてから新しい環境で働き始めると、今まで通用していたことが全く通用しなくなりました。

初めてのことだから仕方がないと割り切れていたら、どれだけ楽だったか。

それができずにまたメモ魔となり、ありとあらゆることを覚えるために必死になりました。その努力は少しずつ報われて、いつしか周りの人たちはこう言ってくれるようになったのです。

「先生は、仕事ができるから頼りになるね」と。

その言葉は今までもらったどんな言葉よりも嬉しくて、初めて認められたような気がしました。「努力をすれば報われる」そんな言葉を何度も聞いてきたけれど、報われることがなかった人生です。

だからこそ、余計に嬉しかったのかもしれません。

そして「もっと頑張らないと。もっと努力しないと」とさらに自分自身の心を奮い立たせて、どんなことでも全力を注ぐようになっていきました。

焦る気持ちが前に出て

職場だろうが家だろうが関係なく、保育の仕事と向き合いました。どれだけ時間がかかっても、どれだけ疲れていても、自分が出せる100%の力を常に出し切れるように毎日全力投球し続けていました。

しかし、その姿は側から見たら異常に見えていたのかもしれません。

完璧主義になるあまり、少しでもうまくいかなくなると長いこと落ち込むようになりました。

そして決まって自分を責めてしまうんです。「どうしてこんなこともできないんだ。もっと頑張らないと、あなたは必要のない存在になってしまう」と。

そうやって自分の首を自分で締めていくようになりました。

ワタシには保育士以外でご飯を食べて行く方法も、才能をお金に変えられるような人間でもなかった。才能がないワタシは、とにかく頑張らないと生きていけないんだとさえ思うようになったのです。

緊張の糸がぷつりと切れた時

しかし、そんな生活がいつまでも続くはずもなく、完璧主義を貫きすぎたあまり体を壊し、人間関係まで壊れてしまい、そして大好きだった仕事を自滅という形で終わらせる結果となってしまいました。

強迫観念のように染みついた完璧主義は、日常生活にも支障をきたすようになり、負の連鎖が続くようになったのです。

そんな時、またあの言葉を言われました。

「頑張りすぎないで」と。

ただこの時には、言葉に込められた本当に意味を理解できず、逆に言われたことに対して余計に不安を感じてしまったのです。

三度目の正直は・・・

今ワタシは約2年の休養期間を経て、また新たな職場で保育の世界に戻ることにしました。

しかし、今までは正規として完璧を求めすぎていたから、今回は環境も働き方も変えて、子どもたちと向き合う道を選びました。

今になってようやく、言葉の意味がわかるような気がします。

誰にも頼らず全てを一人でやらなければならない環境がありました。その環境に染まっていくにつれて、ワタシは誰かに甘えたり助けを求めたりする方法をが分からないまま数年の時間を過ごしてしまったのです。

頼ることは間違っている。

助けを求めることは、よくないことだ。

そうやって何かと理由をつけて、「自分は頑張るしかない」と決めつけてしまったのかもしれません。

頑張ることをやめようと

長年染みついた癖は、そう簡単に取り除くことはできません。そしてワタシのように完璧主義になり、全てを自分でやろうと頑張りすぎてしまう人も少なからずいるのではないでしょうか。

ただ、その頑張りはいつまでも持続するわけではありません。

車だってガソリンというエネルギーを取り込まないと、走ることはできません。

完璧主義で限界まできているのに走り続けている人は、きっとガス欠の状態で、いつ壊れてもおかしくない状況の中で自分自身を走らせているような気がするのです。

甘えることは決して、恥ずかしいことではないと思うんです。

そして、頼ることは自分自身のためにもある程度必要なことだと思うんです。

もしも「頑張りすぎている」と感じているのなら、ワタシはこう伝えたいと思います。

「もうあなたは十分頑張ってきたよ。あなたがやってきたことは、誰か一人でも必ず見ている人がいるから。どうか、頑張りすぎないで。そして自分自身を大切にしてください。頑張ることと同じくらい、誰かに頼りながら助け合って同じ目標に向かっていくことも、また素晴らしいことなのだから」

 

 

ナイーブな私に勇気をください

  1. TK1979 より:

    頑張りすぎないでを読んで

     私の場合は、頑張った時の自分自身の評価が、他人からの評価と一致したり、また他人からの評価が高かったりした時は心地よく感じていました。しかし自分の中では、頑張ったつもりでも、他人からの評価は当たり前になる時が、いずれ来ます。
     そうなると私は、心地よく感じたいがゆえに、より高みを目指して頑張りました。
     そんな繰り返しが心に大きな負担を与え、軽石のような心にしてしまい、負荷がかかる度にボロボロ崩れ、あげくの果てに自分の心を守るべく、病んでしまいました。
     その代償は大きく、足掛け4年の日々と大切な宝物を失うこととなりました。
     いわば、頑張ったなれの果てが今の私てしょう。頑張りつくした私に頑張れと言われても無理に決まっています。
     十人十色と言う言葉がありますが、私は
    『一人十色』
    と今は思っいます。すなわち、色々な自分に気づく時は、すべて自分自身と受け入れて、言われた通りやるべきことをこなし、決して高みを目指さず川の流れに身をまかすように行こうと思っています。
     辛く生きようと楽しく生きようと、同じく時間(とき)しか生きれないのであれば···
    そんなことを客観的に考えさせて頂いたエッセイでした。ありがとうございます

    • いつも読んでくださり、ありがとうございます。
      今回の感想を読みながら、特に「辛く生きようと楽しく生きようと、同じく時間(とき)しか生きられないのであれば」というコメントに、ものすごく感銘を受けました。
      どんなことも考え方や、見え方でいい方向にも悪い方向にも感じることがある。
      わざわざ今ある流れを無理やりに変えるのではなく、流れに身を委ねて今できることを、目の前にあることを頑張りすぎずに行うことが大切なんだと、読みながら改めて考えさせていただきました。
      ただ一つだけ言えることは、一度地獄を味わい、苦しみの中でもがき続けた人だけが、その景色を客観的に見つめることができるのかもしれません。
      今の自分を俯瞰で見て、そしてこれからの自分がどのように歩みを進めていくかを知ることができるような気がするから。

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