私はある時から、ボーイッシュな格好ばかりするようになりました。男性のような見た目を好み、仕草や口癖さえ男性として振る舞うようになりつつありました。
小学校3年生の時に言われた一言がきっかけとなり、少しずつ心と体の違和感を強くしていったような気がします。
幼少期の頃はピンクや赤を好み、フリルがついた服ばかりを着せてもらっていました。自分自身が女の子であることを疑っていなかったし、プリンセスに対しての憧れも強くありました。
しかし小学校に上がり、同級生たちは子どもから少年、少女に成長していることは、なんとなくですが理解していました。
それでも好みはかわらないし、誰に何を言われても自分という存在を大切にしていました。
心無い一言はトラウマを植え付けた
月日は流れ小学3年生になった春、私は1人の同級生から今でも忘れられない言葉を吐き捨てられたのです。
ある日1人で廊下を歩いていると、私の目の前で1人の男子が足を止めてこう言いました。
「お前って、ぶりっ子だよな。スカートも似合わないし、気持ち悪いんだよ」と。
突然のことに驚いて、「ぶりっ子ってなに?」と聞いてしまいました。
すると「お前みたいな気持ち悪いやつのことだよ」と軽蔑したような顔で、そのまま歩き去ってしまったのです。
言葉を吐き捨てられたまま理解できずに立ち尽くしていると、様子を見ていた同級生たちはクスクスと笑い、その場にいた数名から「あいつぶりっ子だって」と言われ、履いていたお気に入りのスカートの裾をキュッと握りしめることしか出来ませんでした。
どうしても言葉の意味を知りたくなった私は、担任に意味を聞くことにしました。答えを知った時、改めて傷つけられたんだなと悟りました。
家に帰った私は、お気に入りのスカートやフリルのついた服を、両親にバレないようにハサミで切った後、こっそりとゴミ箱に捨てて地味で可愛げのない服だけは取っておくことにしました。
ハサミで切り刻んだ洋服たちは、お気に入りからただのゴミへと変わった瞬間だったのです。
ココロとカラダの違和感
見た目がボーイッシュに変わったことで、誰かに「ぶりっ子」と言われることはなくなりました。誰かに服装や仕草で否定をされることもなくなりました。
中学、高校、そして短大生になるまで自分に似合う服装に迷い、様々なジャンルの洋服を着続けてきました。
しかし、フリルがついたものや女性らしさが表現されているスタイルを、好んで着ることはありませでした。
心のどこかで「もしかしたら似合うかも知れない」と挑戦をしたこともありますが、着てみると気持ちは沈みその格好のまま1日過ごすことに、負担を感じてしまうようになっていたのです。
いつもどこかで「ぶりっ子」と言われた過去が付きまとっていたのかもしれません。
けれどもふと考えたとき、心の奥底で女性的な見た目になることに違和感を感じているのかもしれないと思うようになっていきました。
潜在的にある、心と体のかいりのようなものが見え隠れしていたのかもしれません・・・。
中学生の時期に芽生えた感情
少し遡ると、私は中学生の頃にすでに心と体の違和感を感じていました。少しずつ女性らしい見た目になることに嫌悪感を抱き始めていたのです。
膨らんでいく胸、広くなりつつある骨盤、周りから見ても「あの子は女の子」と分かる容姿が嫌で仕方がありませんでした。
スカートを履くこともブラジャーをつけることも嫌で、両親に隠れてサラシのようなものを巻いて学校に行っていた時期もありました。
しかし、元々肌が弱い私には、サラシを巻くことで肌の負担が増えてしまい、長くつけていることは難しかったのです。それでも、ブラジャーをつけることが耐えられず、色々な方法を模索しながら思春期を過ごしていました。
もう一つ、アンケートや書類を書くときに必ず「男・女」と表記されている部分も、なぜ二択しかないのかと疑問に思い、ずっと真ん中に丸を打っていました。
しかし今のように、ジェンダーやLGBTQが浸透している時代ではなかったので、度々担任から「どうして真ん中に打つんだ」と叱られたこともありました。私自身も理由がはっきりと答えられなかったので、黙ってその場をやり過ごすことしかできませんでした。
もしも、今の時代みたいに性の認識が少しずつ深まっていたら、もう少し自由に生きることができたのかもしれません。
自分のスタイルを貫いて
大人になった今では、自分の本当のスタイルを理解し好きな洋服を着ています。
自分自身が性に対して、男性なのか女性なのかとカテゴライズすることを止めて、「私は私だから、自分の納得がいくオシャレを楽しむ」と思えるようになりました。
しかしそう思えるようになるまで、何度も傷つくような言葉を言われたり、時には名前も知らない人にさえ、指をさされて聞こえるように悪口を言われたこともありました。
ただそれでも、自分自身のスタイルを崩すことはしませんでした。
たった一度の人生を誰かの言葉や行動で左右されることを、私は止めたのです。
LGBTQについて考えたとき
私の恋愛対象は、ずっと男性でした。
だからたとえ、心と体に違和感を抱えていても、きっとそれはLGBTQとかではなく、私自身の思い違いだと決めつけていました。
文章を書くようになってからも、LGBTQについて自分の意見を書いたり、伝えようとすることはあえて避けてきました。
ただ恋愛対象は一つの基準であって、全てを決めるルールではないことに気づいたのです。この性の問題は、もっともっと根深いところで様々な悩みを抱えている人がいるのではないかと思っています。
私自身も学生の頃は、考え方や価値観が合わないことで「変わり者」と言われてきました。小さな社会の中で、何度も悩み傷つくことも沢山ありました。
けれども大人になり、ようやく伝えることが出来る今だからこそ、私の見た目や心の話をすることで、小さいけれど知ってもらえるきっかけになると嬉しいと思います。
きっと私のように、恋愛対象が「異性」でも体に対して違和感を感じている人がいるかもしれない。
性別が「男・女」の二択、あるいは「その他」で片付けられてしまう現状に憤りを感じている人がいるかもしれない。
誰しも持つ、その人自身の考えや生き方に答えなんてないと思うのです。
そして、その生き方を否定することはただのエゴでしかないとも思っています。
一人ひとりが持っている「個性」という与えられたギフトを心の中に持ち続け、私は私の人生を、そして皆さんの心の中にある大切な想いを、持ち続けてほしいと願います。
ナイーブな私に勇気をください