心の余白

オリエンタル納言日常日記

最近ワタシはふと、心の余白が足りなくなっていることに気づき始めています。

忙しく流れていく社会の波に揉まれていると、気がつかないうちに余裕がなくなってしまうのです。

心に余裕があった頃は、小さなことでも笑えていたし、些細な出来事にも喜びを見出せていました。

ちょっとしたことに「ありがとう」と言葉で伝え、そして感謝の気持ちを持てた自分を褒めることができました。

けれども忙しすぎると、目の前に転がっている当たり前で簡単なことにさえ、気づけなくなってしまうんです。

口から吐かれる言葉たち

心の余白が足りなくなると、言葉として現れてしまうことがありました。

嬉しい気持ちを伝えられていた時は、声に出し、そのまま耳の中まで入り込んでくれました。

「あぁ、今ワタシには余裕があるんだなぁ。誰かのことを思い浮かべて、時には感謝をして、そして心が温かくなっていくことを感じられているんだ」そう思えました。

けれども、余白が埋まっていくにつれて吐かれた言葉はどんどん暗くなっていきました。

愚痴をこぼし、できないことに苛立ちを感じて、何かにつけて「でも」「だって」と言い訳がましくなっていきました。

言っている時は、一時的ではあるけれど感情が満たされてスッキリするんです。

でも時間が経つにつれて少しずつ心が重く、そして余白が足りなくなっていく感覚に襲われました。

そして反省をするんです。

「どうしてあんなことを、言ってしまったんだろう」って。

悪いところが目について

負の感情が強く出てしまうと、すぐに心は持っていかれるんです。

だから余計に、言葉として出てくるものは決して褒められるものばかりではありませんでした。

自分自身の嫌な部分から目を逸らし、できないことを嘆いて、その矛先が周りに向いてしまう時さえもあったのです。

どうにかして止めたい気持ちと、どうしようもできない気持ちとの間で葛藤して、どんどん心も、視野も狭くなっていきました。

自分の心と向き合おうとせずに、誰かの悪いところに目を向けて、その場限りの安心感に逃げていたのかもしれません。

環境に左右されて

心ではどうしようもできなかった時、ワタシが唯一できたことは環境を変えることでした。

前向きな言葉を自然と言える人たちと会い、忙しく回り続ける場所から離れる決断をしました。

ただ離れたからと言って、そう簡単に今までのクセが抜けることはなく、数年の時間をかけて自分の心の叫びを受け止め、負の感情と向き合うことを選びました。

自分ではどうしようもできない時には、心の余白を確保できている人に話を聞いてもらい、そして寄り添ってもらった時もあります。

今一番かけて欲しい言葉を必死で伝え、そして何度も何度も声に出して伝えてもらいました。

「大丈夫だよ。あなたは一人じゃないから。抱え込まず、一人で悩まず、甘えることも大切なんだよ」と言い続けてもらいました。

五感で感じて

数年の時間をかけて、少しずつワタシの心には余白ができているような気がします。けれども、染み付いてしまった負の言葉を吐くクセは、そう簡単に直ることはありませんでした。

一杯一杯になりそうになった時には、大きく深呼吸をしました。

他人を羨ましく思ってしまった時には、ほんの少しの間、関わりを持つことをやめて、自分だけの時間を作りました。

美味しいものを食べたり、友人と会ったり、時には少しだけ買い物に出かけることもありました。

嬉しかった時には「嬉しい」と言葉にするようにしました。

楽しかった時には、「ありがとう、あなたのおかげで楽しい気持ちになったよ」と言葉で伝えるようにしました。

悲しい感情が芽生えてしまった時には、気が済むまで泣きました。

怒りが沸々と湧き上がってきた時には、原因を探ってみることにしました。

言葉に責任を持ちながら

「責任」という言葉は、色々な場面で使われているけれど、いざ自分にその言葉がかけられると、「頑張らないと!しっかりしないと!」なんて肩に力が入ってしまう気がしていました。

ただ自分の今まで吐いてきた言葉たちは、巡り巡って自分の元へ返ってくることを知りました。

それはどんな言葉でもです。

嬉しい言葉も悲しい言葉も、時には乱暴な言葉でさえも自分に返ってきました。

そして呪文のように繰り返された言葉たちは鼓膜を通り、しっかりと心に刻まれていくのです。

だからこそ、言葉にだけはせめて責任を持たなければいけないと思うようになりました。

余白を作って

文章と違って一度吐かれた言葉は、取り返すことも時間を巻き戻して無かったことにすることも不可能です。

そして、その言葉を一番近くで聞いているのは自分自身なのです。

心に余白がある時に誰かに優しくできるのは、簡単なことかもしれません。

けれども心に余白がなくなった途端に、優しさを持つことが難しくなってしまいます。

そんな時だからこそ大きく息を吸い込んで、自分の言葉に耳を傾けながら正しい言葉を贈ることが余白を作るコツなのかもしれません。

ほんの少しの想像力を働かせて、そこにちょっとだけ思いやりをのせるだけでいい。

ただ忘れないで欲しいんです。

大変な時こそ、かけてもらった言葉はどれだけ時間をかけても忘れることはありません。

忙しく回り続ける社会にいるからこそ、心の余白を持ちながら生きていきたいと思うんです。

いつか同じように悩んでいる人に出会った時、ワタシの余白をお裾分けしたいから。

ナイーブな私に勇気をください

  1. TK1979 より:

    心の余白を読んで

     私は、心の余白がなくなって、一杯一杯になってしまい心を病んでしまったのでしょう。納言さんをクソ真面目な方とするならば、私もクソ真面目と思います。笑
     心を病む前は、心の余白に平気で土足で入って来る方でも、自分を理解してもらおうと必死でバワーを注いでいたのでしょう。結果、心を病んでしまい、足掛け4年の日々と大切な宝物を失うことになりました。
     しかし、考えて見たら心の余白を使ってまで理解してもらおうとした方は、現在誰一人として私の周りにいません。一体私は、何のために心の余白まで使いきって求めたものは、何なんだろうとがく然となります。笑
     社会復帰できた理由は割愛しますが、働きだした時に同じように、またクソ真面目に心の余白を使うと同じ結果を招くのは明白です。そこで以前と違った関わりで、心の余白を保つかが、私の運命を左右することと位置付けました。
     どう言うことかと言うと、心の余白に土足で入って来る方は、私に取って理解して欲しい人なのかどうかです。すなわち、心のなかにを使っても、また私に心の余白を与えてくれるかどうかです。与えてくれないのであれば、理解してもらう必要のない人になります。
     そのような方には、色々言われても『すいません』の言葉以外に使う必要がなく、バワーも注ぐことはありません。またそのような方は、言うだけ言って、私を理解しようともせずに去っていきます。
     そして大切なことは、私に取って心の余白を与えてくれる方に誤解を招いたら、とことん心の余白を使って理解を求めます。仮に心の余白がなくなっても、直ぐに心の余白を与えてくれるでしょう。笑
     納言さんが言う心の余白のお裾分けが、できるよう忙しく回り続ける社会で真面目に関わって行こう思いました。
    『不真面目でも、クソ真面目でもない真面目で』
     そんなことを考えてさせられたエッセイでした。ありがとうございます。

    追記 一貫して『心の余白』と言う表現に徹しました。

    • いつも読んでくださり、ありがとうございます。
      今回の感想を読みながら、「確かにワタシも、同じように心の余白を使いすぎて生活をしていたわりに、結局その人たちはいなくなってしまったなぁ」なんて考えるきっかけとなりました。
      一体なんのために一生懸命になって心を使って、気を遣って、相手に合わせていたのか不思議な気持ちにすらなりました。
      きっとどこかにあったのかもしれません。「嫌われたくない」とか「余白を使っていい人を演じた方が、この先が楽になる」とか。そうやっているうちに自分の気持ちを蔑ろにしてしまっているのに。
      今ワタシは新しい職場になって、ふと癖のように余白を使いすぎてしまうことがあるように感じます。
      けれども、余白は本当に大切な人たちに残しながら、そのほかは適当にやってみることも必要なのかもしれないと、今回の感想を読みながらハッとさせていただきました。
      簡単なことなのに、考えれば考えるほど難しく思考が歪んでしまう。
      それを改めて教えてもらったような気がします。
      本当に、ありがとうございました。

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